万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

朝鮮半島は日本国の‘植民地’であったのか?

2019年09月22日 14時58分37秒 | 日本政治
朝鮮半島の日本統治については、ネット上において‘植民地論争’が起きているようです。どのような論争なのかと申しますと、‘朝鮮半島統治は、併合であって植民地支配ではない’とする併合論と、‘朝鮮半島統治は植民地支配である’とする植民地論との対立です。この見解の対立、平行線を辿っているように見えるのですが、どこか、論点がズレているようにも思えるのです。

 ‘植民地’という言葉に双方ともが敏感に反応する理由は、この言葉に、宗主国による一方的な支配、搾取、暴力支配、現地住民の奴隷化、天然資源の強取…など、ありとあらゆる悪しき行為が含意されているからでしょう(植民地=悪)。おそらく、植民地論者が‘併合’という表現に拒絶反応を起こすのも、‘併合’という言葉を使った途端に、日本国の朝鮮半島統治=絶対悪とする構図が崩れることを怖れているのでしょう。対日断罪の根拠に関わる故に、植民地論者は、‘植民地’という言葉に強く拘っていると考えられるのです。

 確かに、植民地論者の言い分にも、その取り上げている根拠を見ますと一理はあるように思えます。例えば、一部ではあれ、戦前、並びに、戦後の政治家が共に朝鮮半島について植民地と表現していたこと、諸外国の百科事典の多くにも‘colony’と表現されていること、また、植民地におけるインフラ整備や大学の設置は当時の日本国に限られたわけではなかったこと…などは、歴史的な事実に基づいた反論です。

 それでは、日本国の朝鮮統治が‘植民地’と名目的に表現されれば、その実体までが変わるのでしょうか。上記の植民地論が示した論拠の大半は、イギリス、フランス、オランダ等の西欧列強による植民地支配にも‘良い点’があったというものです。乃ち、この場合、植民地=悪と云う固定概念を植民地=善の方向へと逆転換させることで、自らの植民地論に根拠を与えているのです(この見地に立ては、植民地支配を批判できなくなる…)。しかしながら、西欧列強がアジア・アフリカを植民地化した過程を具に観察しますと、植民地=悪の構図が定着する足りる要素を多々見出すことでできます。

 かくして、植民地とは、悪にも善にも解釈し得ることを植民地論者自身が示すこととなったのですが、となりますと、重要となるのは、個々のケースごとに良い面と悪い面を評価して見ることです。例えば、日本国の朝鮮統治の場合には、李朝が造った巨額の対外債務を肩代わりしたに留まらず、統治機構やインフラの敷設のための多額の財政移転、産業振興に資する官民の投資、法や司法制度の整備、教育制度の拡充など、朝鮮半島の近代化に努めています。朝鮮の人々の権利につきましても、日本在住の場合には、日本国民として選挙権・被選挙権共々参政権も付与されており、朝鮮半島出身の帝国議会議員もおりました。さらには、李朝の王族に対して準皇族としての地位を与えられており、イギリスやオランダなどの西欧列強の王室との違いを際立出せています。法的には、韓国併合条約に記された大韓帝国皇帝が統治権を日本国の天皇に移譲するという形態を見ますと、国家の合邦形態としては同君連合の色彩が濃いという特徴があります。併合説の論者は、こうした日本国の朝鮮統治の実態に注目し、他の西欧諸国の植民地化とは違うことを強調するために、‘併合’という言葉を使いたかったのでしょう。

 国際社会おいて民族自決の原則が成立したことは、異民族支配を終わらせると言う意味において人類の進歩の証です。今日の人類が到達した倫理・道徳的な視点からしますと、日本国の朝鮮半島統治も当然に批判の対象となりましょう。しかしながら、過去の日本国を断罪したいばかりに歴史の一部を恣意的に切り取って評価したり、況してや、植民地という用語の使用をめぐって言い争いをしても、未来に対して意味のあるものとは思えません。そのエネルギーがあれば、良い面も悪い面も含めた戦前の朝鮮半島統治の全体像を、反日政策に凝り固まっている朝鮮半島の両国に正確に伝えるべく、努力を払うべきではないかと思うのです。

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コメント (2)
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