昨日、9月20日、横浜市議会の本会議で、自民党・無所属の会と公明党の賛成により、「カジノ誘致補正予算案」が可決されました。反対票を投じたのは、立憲・国民フォーラムや共産党等の野党系でしたが、自民党等を支持してきた保守層の中にも、カジノ誘致には反対の横浜市民も少なくないはずです(保守系の人々は、社会の健全性を好む傾向にある…)。反対意見には一理も二理もあり、カジノ反対は、政治的な信条や立場の違いを越えた広がりをもつ市民運動に発展する可能性もあります。
カジノ反対に対しては、治安の悪化や依存症等が特に問題視されていますが、ここで、ギャンブルなるものの本質を探ってみるのも無駄ではないように思えます。何故、人々は、ギャンブルに熱中し、中毒症状を呈するようになるのでしょうか。そして、それは、今後とも、人類にとりまして必要なのでしょうか。
人以外の動物はギャンブルに興じることはありませんので、実のところ、ギャンブルとは、人に固有の遊戯です。専門家ではありませんので、憶測に過ぎないのかもしれないのですが、賭けに勝った際に、ギャンブラーの脳内において神経伝達物質であるドーパミンが多量に分泌されるのは、おそらく、人の脳が、将来の出来事に対する自らの予測が当たった際に、自然に快感を覚えるような仕組みとなっているからではないかと推測されます。予測能力が高い程、自然界にあって様々なリスクを事前に回避することができますので、予測と現実が一致した際には、特に強い快感がもたらされるのでしょう。そして、理性的な分析に基づく予測ではなくとも、感覚、特に‘第六感’に基づく予測にあっても、予測と現実の一致は快感の源となると考えられるのです。
このことは、逆に、賭け事に負けた場合には、強い不快感情に支配されることを意味します。そして感情の落ち込みに見舞われますと、人の心の中には、何とかして不快感を脱して、立ち直ろうとする意志が自然に生じます。しかも、‘負け’が損失を伴うギャンブルであれば、なおさらのことです。負けた時の不快感から脱出し、損失を取り戻したければ、‘勝てばよい’ということになります。次の賭けに参加すれば‘勝つ’チャンスもあるのですから、すごすごと失意のうちに賭場を後にするよりも、一財産を失っても勝つまでかけ続ける人々も現れることでしょう。特に、負けた後に勝った時の喜びは、金銭的なリターンも加わるのですから、上述した予測と現実の一致した際の単純な快感をさらに倍増させるのかもしれません。
こうしたギャンブルに見られる勝敗と快不快がセットとなったジェットコースターのような連続が、スリル感をも伴って、人々をギャンブルの泥沼に引き込んでゆくのでしょう。やがて、麻薬中毒と同様に、日常生活では得られない強い快感を得るためにギャンブル通いが常態化し、ドーパミンの多量分泌に慣れてしまった脳もギャンブルなくして正常に機能せず、禁断症状が現れるようになるのかもしれません(ギャンブル依存症)。
ギャンブルが人の脳の仕組み、あるいは、弱点を巧妙に利用したビジネスであるとしますと、やはり、その倫理性が問われて然るべきように思えます。人の直観が当たる確率は決して高くはありませんので、短期的には勝てても長期的には必敗です。しかも、スポーツやゲームのように、身体や技を磨いた入り、戦略を立てるといった努力で勝率を上げることもままなりません。つまり、カジノの経営者のみが人の弱点を利用して大儲けができるのですから、利己的他害行為として刑法において取り締まられても致し方がないのではないかと思うのです。ギャンブルの害悪は既に歴史が証明しているのですから、今日にあっては人類の未来にとりまして不要なもの、否、消滅すべき運命にあるものとして扱っても良いのではないでしょうか。
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カジノ反対に対しては、治安の悪化や依存症等が特に問題視されていますが、ここで、ギャンブルなるものの本質を探ってみるのも無駄ではないように思えます。何故、人々は、ギャンブルに熱中し、中毒症状を呈するようになるのでしょうか。そして、それは、今後とも、人類にとりまして必要なのでしょうか。
人以外の動物はギャンブルに興じることはありませんので、実のところ、ギャンブルとは、人に固有の遊戯です。専門家ではありませんので、憶測に過ぎないのかもしれないのですが、賭けに勝った際に、ギャンブラーの脳内において神経伝達物質であるドーパミンが多量に分泌されるのは、おそらく、人の脳が、将来の出来事に対する自らの予測が当たった際に、自然に快感を覚えるような仕組みとなっているからではないかと推測されます。予測能力が高い程、自然界にあって様々なリスクを事前に回避することができますので、予測と現実が一致した際には、特に強い快感がもたらされるのでしょう。そして、理性的な分析に基づく予測ではなくとも、感覚、特に‘第六感’に基づく予測にあっても、予測と現実の一致は快感の源となると考えられるのです。
このことは、逆に、賭け事に負けた場合には、強い不快感情に支配されることを意味します。そして感情の落ち込みに見舞われますと、人の心の中には、何とかして不快感を脱して、立ち直ろうとする意志が自然に生じます。しかも、‘負け’が損失を伴うギャンブルであれば、なおさらのことです。負けた時の不快感から脱出し、損失を取り戻したければ、‘勝てばよい’ということになります。次の賭けに参加すれば‘勝つ’チャンスもあるのですから、すごすごと失意のうちに賭場を後にするよりも、一財産を失っても勝つまでかけ続ける人々も現れることでしょう。特に、負けた後に勝った時の喜びは、金銭的なリターンも加わるのですから、上述した予測と現実の一致した際の単純な快感をさらに倍増させるのかもしれません。
こうしたギャンブルに見られる勝敗と快不快がセットとなったジェットコースターのような連続が、スリル感をも伴って、人々をギャンブルの泥沼に引き込んでゆくのでしょう。やがて、麻薬中毒と同様に、日常生活では得られない強い快感を得るためにギャンブル通いが常態化し、ドーパミンの多量分泌に慣れてしまった脳もギャンブルなくして正常に機能せず、禁断症状が現れるようになるのかもしれません(ギャンブル依存症)。
ギャンブルが人の脳の仕組み、あるいは、弱点を巧妙に利用したビジネスであるとしますと、やはり、その倫理性が問われて然るべきように思えます。人の直観が当たる確率は決して高くはありませんので、短期的には勝てても長期的には必敗です。しかも、スポーツやゲームのように、身体や技を磨いた入り、戦略を立てるといった努力で勝率を上げることもままなりません。つまり、カジノの経営者のみが人の弱点を利用して大儲けができるのですから、利己的他害行為として刑法において取り締まられても致し方がないのではないかと思うのです。ギャンブルの害悪は既に歴史が証明しているのですから、今日にあっては人類の未来にとりまして不要なもの、否、消滅すべき運命にあるものとして扱っても良いのではないでしょうか。
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