万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

権威の脆さ-皇室の行方

2019年09月10日 14時59分13秒 | 日本政治
皇族が何らかの公式行事に臨席する際には、参列者の人々はみな深々と頭を垂れてお辞儀をし、緊張した面持ちで敬意を表します。この光景は、これまで違和感なく国民に受け入れられてきました。しかしながら、皇室や宮内庁への特定勢力の侵食が進むにつれ、当然とされてきたこの構図は、その存立基盤を失いつつあるように思えます。

 権威は、それが人々の間で自然に成立している間は、物理的な強制力を用いたり、多大なコストを払うことなく、あらゆる抵抗を廃する威力を発揮します。権威を備えた人や団体は、心からの崇敬と厚い信頼を寄せられているため、人々の言動をも方向づけることができるのです。権威者の一声で、長らく紛糾してきた物事が瞬時に決まってしまうケースも少なくありません。軍事力を持たないローマ法王の仲介活動なども、国際社会にあって権威の力を存分に発揮してきた事例でもあります。また、‘不敬’の一言も伝家の宝刀であり、如何なる批判や反対もこの一言で封じることができるのです。

 このため、権威が権威であるためには、その持続性が必要不可欠と云うことになるのですが、それは決して簡単な事ではありません。何故ならば、権威であろうとしても、他の人々が権威として認めない限りは、権威者とはなれないからです。このため、権威には、持続性を可能とする何らかの‘裏付け’があるものです。大抵は、統治権力であったり、抜きんでた実績であったり、能力や才能、血脈、さらには神聖性やカリスマなど、誰もが否定できないようなものです。しかしながら、時間の経過による変化は、これらの‘裏付け’を失わせることがあります。

権威喪失の原因は一つではないのですが、一つだけはっきりしていることは、‘裏付け’を失った途端、権威もまた同時に消滅の危機を迎える点です。例えば、ローマ法王は、近年、明るみになったカトリック聖職者たちの不良行為によってその権威が大きく揺らいでいます。かつて無誤謬が宣言されたように、ローマ法王が語る言葉は絶対的な権威とされてきましたが、今では、ローマ・カトリックの頂点にあっても各方面からの批判に晒されています。あまりの腐敗ぶりに教会組織に愛想を尽かすカトリック信者も少なくないことでしょう(宗教改革もカトリックの腐敗が原因…)。そして、永続性のある組織よりもさらに権威の維持が難しいのが世襲制です。世襲とは、権威の‘裏付け’となる個人的な実績や資質をそのまま子孫の継承者に引き継ぐことができないからです。

それでは、今日の皇室はと申しますと、組織と個人の両面において、急激な権威喪失が起きているように思えます。日本国の天皇の権威は、古代が引き継がれてきた神道の祭祀者としての神聖性にその源がありますが、創価学会や統一教会といった全体主義を志向する新興宗教団体の影響下に置かれたのでは、その権威を保ち続けることはもはやできなくなります。国民の多くは、伝統が断ち切られ、皇室は‘乗っ取られた’と感じることでしょう。時を同じくして、神武天皇以来の皇統の継続性についても強い疑いが生じているのですから、なおさらのことです。ネット上で指摘されているように婚姻によって中国系や朝鮮系の血脈も流れ込んでいるとするならば、国民の皇族を見る目も自ずと違ってきます。自らが頭を下げなければならない皇族とは、一体、何者なのか、国民の頭は混乱しますし、もしかしますと、こうした慣習も、権威づけに体よく利用されているだけかもしれないのですから。

権威とは、あらゆる面で利用され易い一方で、人の心理に依拠するために本質的な脆さをも内包しています。そして、こうした権威の問題を考慮しますと、現皇室、即ち明治期に始まる近代皇室については、既に曲がり角に来ているように思えるのです。

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コメント (4)
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