2019年9月、初めて日本国でラグビーのワールドカップが開催される運びとなり、日本代表チームにも関心が集まっています。日本のチームであれば、当然に日本人選手によって構成されていると考えがちですが、ラグビーの国際ルールでは、外国籍でも一定の条件を満たせば国の代表になれるらしく(出生地、自国民の子孫、居住期間等…)、驚くべきことにチームの半数が外国籍なそうです。日本国籍の取得者等を含めれば、外国系代表の数はさらに増すことでしょう。
スポーツ界における多国籍、多人種化、多民族化は甚だしく、テニスの大坂なおみ選手、陸上短距離のサニ・ブラウン選手、バスケットの八村類選手など、近年、内外での活躍が報じられている選手は皆アフリカ系です。また、国技とされる相撲にあっても、モンゴル出身の横綱白鳳関の日本国籍取得が報じられており、引退後にあっての日本相撲協会理事長の椅子が目的ではないかとする指摘もあります。
こうした現象は、日本国に限られた事ではありません。人類のDNAの多様性とは、主として自然環境への適応によってもたらされていますので、人種や民族によって身体能力に差が生じたのは、人類史においては致し方がないことです。俊足さにかけてはアフリカ系が秀でていますし、腕力であればモンゴル系の人々が有利となりましょう。スポーツは、ストレートに能力が結果に現れますので、競争条件が等しい場合には、他の人種や民族が身体能力において逆立ちしても勝てない種目もあるのです。
身体能力を基準とすれば、何れの国も外国から優秀な選手を求めることとなり、今後とも、スポーツ界の多国籍、多人種、多民族化はさらに強まることでしょう。否、‘多様化’ではなく、もしかしますと、種目別に視れば‘単一化’される可能性さえあります。実際、マラソン競技では、全世界のトップランナー100人の大多数はアフリカ系で占められているそうです。陸上競技にあってはマラソンのみならず他の種目でもアフリカ系が圧倒的に有利であり、競技場のトラックで他の人種の選手の姿を見かけることは稀になりました。アフリカ諸国の経済成長につれ、スポーツ環境が整備されるようになれば、さらにアフリカ系選手が躍進することでしょう。また、卓球界でも、国際選手権における各国代表選手の大半は中国出身者です。ここでも、同種目における最強の民族による単一化現象が起きているのです。こうした‘多様化’と‘単一化’が同時進行し、さらに‘融合’が進んでゆく状況は、スポーツ界の‘グローバル化’と表現することができるかもしれません。否、スポーツ界の方が、一般社会よりも先行しているのです。
スポーツ界に見られるこうした弱肉強食的なグローバル化に対して違和感を唱えますと、すぐさまに‘時代遅れ’とするレッテルを貼られてしまします。しかしながら、その先に見えてくるのは、どのような世界なのでしょうか。国際スポーツ大会を開催しても、どの国のメンバーも、その種目の最強人種・民族によって構成されており、違っているのは所属チームを示すユニフォームだけかもしれません。そして、優勝が約束されたチームとは、最優秀の選手を外部から高額報酬で引き抜くことができる資金力に優る国のチームとなるのです。この状態にあって、人々は、自国のチームを熱狂的に応援するのでしょうか。
また、そもそも、‘時代遅れ論’が正しければ、国別チーム対抗という国際スポーツ大会の概念自体が‘時代遅れ’となります。スポーツの主流は、個人、あるいは、民間チームへと移り、このレベルに達しますと、もはやオリンピックもワールドカップも姿を消し、国民が自国代表に声援を送ることもなくなります。純粋にその競技種目が好きな人々のみがスポーツファンとして残るのですが、スポーツの能力には、上述したように人種や民族によって能力に相当の開きがありますので、絶対的に劣位する人種や民族に属する人々、あるいは、個人は、自らが不得手とする種目に対して急速に興味を失ってゆくことでしょう。つまり、近い将来、スポーツそのものに危機が訪れることが予測されるのです。
考えても見ますと、各国とも、国際レベルにおいて自国チーム、あるいは、自国選手の優勝、あるいは、上位成績を狙うからこそ、スポーツ界のグローバル化が引き起こされているとも言えます。勝利至上主義の厳しく過酷な国際競争こそがスポーツ衰退や混沌の原因となるならば、長い目で見れば、スポーツとの接し方や楽しみ方を変えてゆく必要があるのかもしれません。スポーツとは、身体を鍛えるのみならず、正々堂々とルールに従って競うフェアプレー精神を育てる役割をも担っているのですから。強引なグローバル化を避け、勝っても負けてもよく頑張ったと言えるような、あるいは、自らの弱点を自らで克服し得る、より‘ゆるい’スポーツの方が、人類とスポーツとの関係はより調和的なものになるのではないでしょうか。そして、この方向性は、スポーツ界のみならず、経済や社会におけるグローバル化についても言えるように思えるのです。
よろしければ、クリックをお願い申し上げます。
にほんブログ村
スポーツ界における多国籍、多人種化、多民族化は甚だしく、テニスの大坂なおみ選手、陸上短距離のサニ・ブラウン選手、バスケットの八村類選手など、近年、内外での活躍が報じられている選手は皆アフリカ系です。また、国技とされる相撲にあっても、モンゴル出身の横綱白鳳関の日本国籍取得が報じられており、引退後にあっての日本相撲協会理事長の椅子が目的ではないかとする指摘もあります。
こうした現象は、日本国に限られた事ではありません。人類のDNAの多様性とは、主として自然環境への適応によってもたらされていますので、人種や民族によって身体能力に差が生じたのは、人類史においては致し方がないことです。俊足さにかけてはアフリカ系が秀でていますし、腕力であればモンゴル系の人々が有利となりましょう。スポーツは、ストレートに能力が結果に現れますので、競争条件が等しい場合には、他の人種や民族が身体能力において逆立ちしても勝てない種目もあるのです。
身体能力を基準とすれば、何れの国も外国から優秀な選手を求めることとなり、今後とも、スポーツ界の多国籍、多人種、多民族化はさらに強まることでしょう。否、‘多様化’ではなく、もしかしますと、種目別に視れば‘単一化’される可能性さえあります。実際、マラソン競技では、全世界のトップランナー100人の大多数はアフリカ系で占められているそうです。陸上競技にあってはマラソンのみならず他の種目でもアフリカ系が圧倒的に有利であり、競技場のトラックで他の人種の選手の姿を見かけることは稀になりました。アフリカ諸国の経済成長につれ、スポーツ環境が整備されるようになれば、さらにアフリカ系選手が躍進することでしょう。また、卓球界でも、国際選手権における各国代表選手の大半は中国出身者です。ここでも、同種目における最強の民族による単一化現象が起きているのです。こうした‘多様化’と‘単一化’が同時進行し、さらに‘融合’が進んでゆく状況は、スポーツ界の‘グローバル化’と表現することができるかもしれません。否、スポーツ界の方が、一般社会よりも先行しているのです。
スポーツ界に見られるこうした弱肉強食的なグローバル化に対して違和感を唱えますと、すぐさまに‘時代遅れ’とするレッテルを貼られてしまします。しかしながら、その先に見えてくるのは、どのような世界なのでしょうか。国際スポーツ大会を開催しても、どの国のメンバーも、その種目の最強人種・民族によって構成されており、違っているのは所属チームを示すユニフォームだけかもしれません。そして、優勝が約束されたチームとは、最優秀の選手を外部から高額報酬で引き抜くことができる資金力に優る国のチームとなるのです。この状態にあって、人々は、自国のチームを熱狂的に応援するのでしょうか。
また、そもそも、‘時代遅れ論’が正しければ、国別チーム対抗という国際スポーツ大会の概念自体が‘時代遅れ’となります。スポーツの主流は、個人、あるいは、民間チームへと移り、このレベルに達しますと、もはやオリンピックもワールドカップも姿を消し、国民が自国代表に声援を送ることもなくなります。純粋にその競技種目が好きな人々のみがスポーツファンとして残るのですが、スポーツの能力には、上述したように人種や民族によって能力に相当の開きがありますので、絶対的に劣位する人種や民族に属する人々、あるいは、個人は、自らが不得手とする種目に対して急速に興味を失ってゆくことでしょう。つまり、近い将来、スポーツそのものに危機が訪れることが予測されるのです。
考えても見ますと、各国とも、国際レベルにおいて自国チーム、あるいは、自国選手の優勝、あるいは、上位成績を狙うからこそ、スポーツ界のグローバル化が引き起こされているとも言えます。勝利至上主義の厳しく過酷な国際競争こそがスポーツ衰退や混沌の原因となるならば、長い目で見れば、スポーツとの接し方や楽しみ方を変えてゆく必要があるのかもしれません。スポーツとは、身体を鍛えるのみならず、正々堂々とルールに従って競うフェアプレー精神を育てる役割をも担っているのですから。強引なグローバル化を避け、勝っても負けてもよく頑張ったと言えるような、あるいは、自らの弱点を自らで克服し得る、より‘ゆるい’スポーツの方が、人類とスポーツとの関係はより調和的なものになるのではないでしょうか。そして、この方向性は、スポーツ界のみならず、経済や社会におけるグローバル化についても言えるように思えるのです。
よろしければ、クリックをお願い申し上げます。
