新興宗教団体とは、その本質において非民主的な存在なのですが、それでは、何故、政治思想としての危険性を内包している新興宗教団体が、かくも数多く設立されているのでしょうか。その理由としては、先ずもって、憲法が定める信教の自由の保障がありましょう。いわば、個人に対する基本的な自由の保障が、自由のみならず、民主主義や法の支配等を否定する宗教を擁護しているという、極めて忌々しき問題が認められるのです。
この矛盾は、イスラム過激派によるテロ事件が発生した際にも、‘自由を否定する自由はあるのか’、という論題としてヨーロッパ諸国で指摘されています。イスラム原理主義という思想を信教の自由の名の下に認めますと、自由そのものが否定されるからです。もっとも、個人の自由の保障に関する議論は、以下のように考えれば、誰もが納得するのかもしれません。
フランス革命の標語とされた‘自由’、‘平等’、‘博愛’の三つの言葉は、独立した単語として並列的に表記されています。この有名なスローガンは、古代ギリシャのストア哲学に起源を遡る啓蒙思想から抽出されものですが、今日では、人類普遍の価値とされています。おそらく、この三つの言葉は、人類という知的生物の生存や幸福の条件と関わる故に、古今東西を問わず、多くの人々の心と共鳴してきたからなのでしょう。これらの価値は否定のしようもないのですが、考えるべき、あるいは、議論すべき問題がないわけではありません。重要な議題の一つは、各々独立した価値として理解すべきか、否か、という問いかけです。独立的に解釈しますと、自由、平等、博愛の何れにあっても、それぞれを無制限に追求し得ることとなります。
本日の記事では、自由を扱いますので、まずもって自由について考えてみることとします(無制約な平等にも深刻な矛盾がある・・・)。仮に、個人の自由を無制限に認めるとすれば、他者の命、身体、人格といった基本的権利や財産のみならず、自由そのものをも奪う自由を許すことになります。この場合、自己の自由が他者の自由を否定しますので、自由一般という観点からすれば自由が自由を否定し、絶対的な矛盾が生じます。言い換えますと、無条件の自由は、論理的にはこの世には存在しないと言えましょう。つまり、自由いうものを考えるときには、常に、その限界や条件を語らなければ空虚なものとなるのです。ホッブスが『リヴァイアサン』にて述べたように、自由(自然権)を無制限に認めれば、他者を排除する自由までもが、認められることとなってしまい、「万人の万人に対する闘争」となり、この世は殺戮の場となることでしょう。人類が最後の一人になるまで・・・。
このような無制限な自由を認めますと、自らを絶滅に導く人類の自滅行為となりますので、自由には自ずと制約があると考えざるを得ません。自由の制約性を否定すれば、それはすなわち、他者から自らの命も奪われる認めることになるからです。ここに、自由と平等との間の関係性が見てきます(博愛については異説がある上に、フランス語ではFraternitéとなり、秘密結社の団結を表すランス革命固有の意味合いがあるかもしれない・・・)。自由も平等も個々に独立した価値ではなく、自由の制約条件こそ平等である、というものです。言い換えますと、個々の自由の保障とは、個々人間の相互性や平等性が条件となるのであり、他者の自由を侵害する自由はないということになりましょう。
因みに、1789年に発せられた『人権宣言』では、「自由とは、他者に害をなさぬあらゆることを行うことができるということである。よって、各人の自然権の行使には、それが社会の他の人々が同じ諸権利を享受することを保証するもの以外には限界がない。こうした限界は法によってのみ決定される。」と定義されています。同定義には、自由の相互・平等性が謳われていたのですが、限界の設定を法のみに求めたため、前半の「「自由とは、他者に害をなさぬ・・・以外には限界がない。」という部分が何故か無視され、その後、フランス革命政府は、アンシャンレジーム側と見なした国民に対して非人道的な虐殺、逮捕、拘禁、財産没収などに走ることにもなったのです。法が自由の相互性・平等性という限界を破ってしまった悪しき前例なのかもしれません・・・。
以上に述べてきた自由における相互・平等条件の観点からしますと、信教の自由にも限界があることが理解されます。つまり、無制限な信教の自由はない、という論理的な結論に達するのです。このため、殺害をはじめ他者の自由や権利の侵害を信仰の名の下で容認する宗教は邪教やカルトとなります。教義に反社会性を含む新興宗教のみならず、イスラム原理主義であれ、キリスト教原理主義であれ、伝統宗教の宗派であっても基準は同じです。マルクート教といった今日なおも密かに信仰されているとされる人身供養を伴う古代宗教も禁止されるべきすし、東京都も、殺人である‘ポア’を教義として認めていたオウム真理教を宗教法人として認証すべきではなかったのです。
それでは、安部元首相暗殺事件をきっかけに問題性が明るみとなった元統一教会や創価学会といった新興宗教団体はどうでしょうか。教義であれ思想であれ、全体主義が自由主義と対峙して置かれるように、全体主義体制を標榜する団体や組織は、自由や権利に対する侵害性を内包しています。そして、こうした宗教集団には全体主義の脅威があるからこそ、政教分離の原則が重要な意味を持ってくると言えましょう(続く)。