君主という存在は、かつては統治者であり、かつ、伝統的な権威をまとっている以上、本質的に、民主主義という価値との間に摩擦を起こしやすいという問題を抱えています。しかも、外部の組織に操られているとなりますと、民主主義のみならず、国家の独立性や安全保障にとりましても脅威となり得ます。そして、新興宗教団体もまた同一の外部組織の支部である可能性は極めて高く、いわば、上下から挟む形で一般国民を追い詰める作戦が遂行されていると推測されるのです。そこで、新興宗教団体を政治学的に見てみますと、以下のような非民主的な要素が確認されます。
第1に、統治の正当性は、人ではなく、神に求められます(近代民主主義体制では、統治の正当性は国民から発する)。神からの神授をもって自らの正当性を主張する形態は、歴史的にはヨーロッパの王権神授説、中国の天命思想、そして日本国の‘天壌無窮の御神勅’にも見受けられ、近現代では、太平天国の乱の洪秀全などもこの事例となります(ユダヤのメシア思想か・・・)。そして、今日、新興宗教団体の教祖が国家や世界の支配を主張するに際しても、自らを‘神から選ばれし者’として振る舞うのです。この主張に対しては、大多数の一般の人々は認めないものの、教団の信者たちは信じ込んでいますので、大変、厄介です。
第2に、新興宗教団体が目指す国家体制とは、全体主義の一類型としての神権政治です。神権政治である以上、建前としては神が人々を統治するという構図となりますので、人々が、国家体制の選択を含めて自らの事は自らで決定する、という民主主義の基本原則とは相容れません。イスラム宗教国家であるイランのように指導者を国民が民主的選挙を経て選ぶことはできても、国家体制そのものの選択は、原則としては許されないのです。この側面は、共産主義国と言ったイデオロギー国家とも共通しております。
第3に、新興宗教の教祖が夢見る国家や世界とは、教祖を頂点とした独裁体制と言っても過言ではありません。信者達がその実現を熱望し、熱心に協力するのも、同体制が成立すれば、自らは‘特権階級’に取り立てられると期待しているからなのでしょう。教祖独裁体制では、人々が自らの問題について自由に議論し、合意を形成してゆくという民主的なプロセスは存在しません。神の名の下で命令が下され、人々は、それに従うのみの存在となるのです。
第4として指摘されるのは、全てではないにせよ、新興宗教団体の教祖の座は、神から選ばれた特別な血統という文脈において世襲される傾向にある点です。言い換えますと、民主的な選挙をもって統治に携わる者が選出されるのではなく、王族や皇族と同様に、教祖の子孫達によって閉鎖的に継承されるのです。元統一教会の教祖に至っては、日本国の皇統のみならず、他の諸国の王統にも自らの血統を加えようという野望を抱いていました(実際に、既に起きている可能性も・・・)。因みに、正統を乗っ取る作戦も、新興宗教団体の特徴かもしれません。バチカンのフランシスコ法王は、歴代法王にあって初めてのイエズス会出身の法王となりましたが、カトリックは、ついに‘元祖新興宗教団体’とも称すべきイエズス会に乗っ取られたと言えるかもしれません。
そして第5点としては、その積極的な政治活動を指摘することができましょう。元統一教会や創価学会は言わずもがな、オウム真理教などの新興宗教団体の多くは、自らの理想をこの世に実現するための手段として政治権力を求めています。国家権力の完全掌握に至るまでの過渡的な段階にあっては、政党の利用が目的地までの最短距離と考えているかもしれません。歴史には、共産党、ナチス、ファシスタ党と言った思想団体の成功例もあります(イデオロギー政党と新興宗教団体には共通性がある・・・)。創価学会は公明党という別働隊の政党を造りましたが、他の新興宗教団体もまた、元統一教会のように政治家と癒着したり、組織力を背景に、政治資金の提供や選挙活動への協力など様々な手段を用いて裏道から政治に影響を与えようとするのです(統一教会は自民党?)。そして、政治の側にとりましても、その信者集団は大量動員し得る圧力、あるいは、同調圧力団体としての利用価値が高いのです。
仮に、宗教団体ではなく、同様の教義を掲げて政治団体として設立されたとすれば、即座に民主主義を否定する危険思想団体と見なされたことでしょう(公明党は、創価学会が目指したとされる総体革命の構想については、国民に隠している…)。言い換えますと、新興宗教団体とは、民主主義体を内部から破壊する装置という警戒すべき側面が見られるのです(続く)。