来る自民党総裁選挙では、かねてより出馬が囁かれてきた河野太郎氏も、予測通りに立候補を表明することとなりました。同氏は、必ずしも国民から信頼され、好感を持たれているとは言い難い政治家です。ワクチン接種推進担当大臣を務めた際には、無責任かつ国民の命を軽視する冷酷な発言を繰り返しましたし、デジタル大臣としても、マイナンバー・カードの使用を余儀なくさせるような姑息な手段などに訴えているからです。世論調査では‘首相になって欲しくない政治家’のトップ3には常に顔を出すのですが、コロナワクチンにせよ、デジタル化にせよ、グローバリストの計画に沿った行動を見せていますので、世界権力からの覚えはめでたいのでしょう。マスメディアの持ち上げ方を見ましても、同権力に対する高い忠誠心と国民多数の反発や反感を無視するという意味での‘突破力’は、自民党総裁選における立候補者にあってトップクラスなのでしょう。
さて、報道に因りますと、総裁選挙への立候補に際しての質疑応答にあって、河野氏はSNSにおけるブロック問題について釈明したそうです。自らのXにて特定の投稿者をブロックをした理由を投稿内容が誹謗中傷であったとした上で、他の人々にも誹謗中傷対策としてブロックを薦めたというのです。同言い訳に対しては、国民の声を聞くことが重要な政治家の仕事の一つですので、河野氏の政治家としの資質を問う批判の声が多数寄せられることにもなったのですが、同一件によって、河野太郎氏は日本国の首相に相応しくないと確信した国民も少なくなかったのではないかと思います。
統治とは、そもそも国民の必要性から生じてきた公的機能ですので、政治家が国民を遮断する、すなわち、ブロックした場合、国民のニーズを把握したり、国民の要望を知ることはできなくなります。また、国民からの批判をシャットアウトしたのでは、政策改善のためのフィードバックも難しくなりましょう。今日、SNSは、それがコメント投稿という形であれ、政治家が国民と直接に接し、生の声を聞くことができる貴重な場を提供しています。いわば、国民が公開の場で政治家に対して発言し得る唯一の場とも言えましょう。このため、政治家が一方的にSNSでブロックしますと、国民の声の遮断行為として受け止められてしまうのです。言い換えますと、ブロックするような政治家は国民の声を聞くつもりは毛頭なく、独裁者のように国民を一方的に支配したいのではないか、とする疑いを持たれてしまうのです。
かくしてブロックという行為自体が独裁者の資質を認識するに十分なのですが、それでは、投稿内容が誹謗中傷であればブロックは許されるのでしょうか。河野氏の釈明は、国民の声を全てブロックしているのではなく、単なる悪口や言葉の暴力ともなり得る誹謗中傷のみを排除しているというものです。確かに、SNSには、通常、ブロック機能が設けられており、悪意のある投稿者、あるいは、不特定多数の投稿者による誹謗中傷からユーザーを保護する役割を果たしています。
しかしながら、河野氏の場合、誹謗中傷の判断は自らの主観のみに基づいています。同氏が、誹謗中傷と見なした投稿は、それが真っ当な意見や批判等であったとしても、‘誹謗中傷’として排除されてしますのです。実際に、新型コロナワクチンの被害を訴えた女性がブロックされる事件も発生しており、この懸念を裏付けています。独裁者とは、常に自らの耳に心地よい意見や取り巻きの追従しか聴きませんし、真摯な批判や誠実な諫言は遠ざける傾向にあります。ここにも独裁者の特性との共通点が見られるのであり、同氏の総裁選での勝利を国民の多くが懸念する理由となりましょう。
しかも、国民の多くは、ブロック対象者が実際に誹謗中傷を書き込んだのか、確かめる術もありません。24時間、河野氏のSNSをチェックしているわけではないからです。上述したワクチン被害を訴えた女性に対するブロックの場合には、同女性が集団訴訟に参加したためにマスメディアでも報じられることとなりましたが、他にも政治的な意見や正当なる批判を投稿した人々が密かに、かつ、瞬時にブロックされてきたことでしょう。ブロックはアカウント保持者が一方的に行なうことが出来ますので、‘誹謗中傷’とは、体よく自らに対するネガティブな意見を排除してしまう口実としか思えないのです。そして、この意図が透けて見えるからこそ、国民の多くが河野政権誕生を警戒するのではないでしょうか。
結局、SNSブロック問題についての釈明は、河野氏が自らの独裁者としての資質を証明する場となってしまったかのようです。そして、この素質こそが、国民世論とは逆に、独裁体制を志向する世界権力が河野を高く評価する理由なのではないかと思うのです。