世の中では、しばしば自らが原因となって敗北してしまう‘自滅’という現象が起きるものです。選挙にあっても、有権者は、選挙に勝利した側を積極的に支持したわけではなく、選挙の結果が、勝者側の得点ではなく敗者側の失点によって決まってしまうケースがあります。10月27日に投票日を迎える今般の衆議院選挙にあっても、同現象を見出すことができましょう。連立政権を組んでいる自民党並びに公明党の苦戦が報じられており、その主たる原因は、自公政権の失政、否、悪政にあるからです。相当数の国民から怒りを買ってしまったのですから。
与党の過半数割れが起きるとすれば、それはまさしく自らへの不評に起因する自滅なのですが、ここに、公約に関するもう一つの問題が持ち上がります。それは、現政権に対する批判票をもって勝利はしたものの、野党に一票を投じた国民の多くは、必ずしも投票先の政党が掲げる政策を支持しているわけではなく、ましてや公約についてもその実現を切望しているわけではない、という乖離の問題です。現政権の退陣を求める批判票は、投票先政党の政策支持を意味しないのです。
実際に、野党の中には、極めて非現実的な政策を掲げている政党も見受けられます。過去にあって唯一の政権交代となった2009年における民主党政権の誕生に際しても、同様の現象が問題となりました。この時も、有権者の多くが長期に及ぶ自民党政権に愛想を尽かし、漠然とした期待感から民主党に投票はしたものの、その期待は悉く裏切られています。民主党政権では、公約の遵守どころか、菅直人首相に至っては「議会制民主主義は期限を切った独裁」と述べたのですから、その後の政策運営は推して知るべし、ということになりましょう。政権与党になれば、公約の範囲をも超えて何でも好き勝手に出来ると考えていたとしますと、そら恐ろしいと言わざるを得ません。「悪夢の民主党」という評された所以は、まさに「批判票≢政策支持」の問題にあったと考えられるのです。
大量に発生した批判票が野党政党に流れ込むことが予測されている今般の衆議院選挙では、何れの連立の組み合わせであれ、現状の自公の枠組みが維持される可能性は極めて低いと言えましょう。そして、この予測は、前回の政権交代の悪夢を繰り返すリスクを暗示してもいます。勝利した側の野党は、自らの公約が国民からの支持を得たとして、政権発足後に、独善的な立場から国民の望まぬ方向に政策方針の舵を切るかもしれません。自公政権にありましても、国民の声に頑なに耳を塞ぎ、国民の命をも世界権力の犠牲に供してきましたが、政権交代が実現したとしましても、民意に添った政治が実現する保障はないのです。
それでは、「批判票≢政策支持」の問題に対して、どのように対処すればよいのでしょうか。少なくとも、投票日は27日に迫っていますので、制度を変えることは不可能です。そこで、せめて同問題を緩和させるためには、‘批判票と政策支持はイコールではない’とする認識を、政治家並びに国民が共有する必要がありましょう。批判票が流入した政党の側は、それが、自らの公約に対する全面的な支持を意味しないことを自覚すべきですし、その一方で、批判を受けた側の与党政党は、自らの政策に国民の多くが反対している現実を直視すべきと言えましょう。否、今般の選挙結果は、与野党を問わず日本国の政界自体が、国民が何に反対し、どのような政策を望んでいるのか、民意を的確に分析し、理解する機会とすべきなのではないでしょうか。
民主主義の本旨は、選挙での公約実現を盾にして、政党が自らが掲げる政策を国民に押しつけるものではないはずです。逆に、民意を適切に政策化することこそ、民主主義国家に相応しい政治の在り方と言えましょう。今日の政治は主客が逆転しており、この逆転が、日本国の政界がグローバリスト、即ち、世界権力の代理機関に堕してしまった要因の一つでもあると思うのです(つづく)。