近年、日本国では、政権が交代する度に、‘○○ミクス’という首相の名に因んで命名された経済政策が打ち上げられてきました。新政権による国民向けのアピールの一つに過ぎないと見なされ、誰もが気にも留めなかったことなのでしょうが、考えてもみますと、政権交代にも拘わらず延々と続いてゆく‘○○ミクス’とは、国民向けではなく、グローバリスト向けの一種の‘宣誓’であったのかもしれません。グローバリズムの路線を歩み続けるという意思表示の・・・。そして、今般の米価高騰の背景にも、グローバリストの戦略の介在が疑われるのです。
岸田文雄前首相が、ロンドンの金融街であるシティにあって‘インベストインキシダ’と述べたのは2022年5月5日のことです。投資の対象としては、「人への投資」「科学技術・イノベーションへの投資」「スタートアップ投資」「グリーン、デジタルへの投資」を挙げていますが、岸田首相のオリジナルな政策ではなく、何れもグローバリストの政策綱領を丸写しにしたようなものです。‘日本国をグローバリストの投資先として開放しますので(岸田首相は自らと日本国を同一視してるいので、‘朕は国家なり’流の国家の私物化意識も伺える・・・)、どうぞ、たくさんお金を儲けてください‘と言ってるようにも聞えます。
かくして、2024年8月に再開された大阪堂島商品取引所の米先物取引も、SBIホールディングスの背後に潜むグローバリストと岸田前政権との共同作業であったと推測されるのですが、その先には、日本国の米市場の開放というシナリオも見えてきます。ネット上などでも、余りにも高値となった米価を前にして、政府に対して海外からお米の輸入を求める声が散見されるようになりました。‘海外の輸入米も、日本産のお米と遜色がないのだから、家計が圧迫されている国民の生活を助けるためにも、即刻、政府はお米の輸入拡大に舵を切るべき’という意見です。店頭での価格を見て多くの家庭でお米の購入を躊躇するぐらいの高値なのですから、お米輸入の拡大要請には確かに道理はあります。
しかしながら、今般の米価高騰を機にお米の関税率が大幅に引き下げられたり、関税が撤廃されるとなれば、その後の展開は容易に予測が付きます。日本国の農家の大半の経営は立ちゆかなくなり、日本国から水田が広がる風景は消えてゆくことでしょう。将来の日本国の農村とは、外国人労働者によって耕作されるプランテーション型の輸出向けの米農場が各地に出現するか、あるいは、有機無農薬栽培といった超高給ブランド米を生産する農家が点々と残る一方で、日本国内では、一部の富裕層を除く一般国民の食卓には輸入米が上ることとでしょう。 ‘米輸入を自由化し、日本米と海外米との棲み分けを行なうべし’という主張は、こうした未来像なくしては成り立たないのです。
果たして、このグローバル路線が描く未来は、日本国民にとりまして望ましいものなのでしょうか。この未来像は、やはり、‘植民地もどきの日本’というディストピアのように思えます。因みに、江藤拓農相が、‘年間約77万トンとされるミニマムアアクセスを縮小する方向で交渉を開始した’との情報がありますが、ミニマムアクセスは日本国の米に対する高関税維持とセットですので、この方針は、今後、関税率を下げるということなのでしょうか・・・。
かつての食管制度のイメージから、米作に対する政府の介入は統制経済的な手法と見なされがちですが、今日のグローバリストや新自由主義者が言う‘自由’とは、自由放任を許す‘野蛮’への回帰と言わざるを得ません。農家も含めて国民の収入や消費活動が安定し、豊かな生活が送れるように政策を行なうことこそが政府の基本的な役割なのですから、それを阻害する自由に対して公的に規制することは当然の対応ですし(刑法の必要性と同じ・・・)、少数の人々の私欲が多くの人々の生活を破壊しないためには、賢明なる仕組みを造る必要があります。日本国政府は、岐路にあって進むべき道を誤ってはならないと思うのです(続く)。