関東大震災に際して発生した‘朝鮮人による日本人虐殺’と‘日本人による朝鮮人虐殺’という二つの事件は、相互に切り離すことができない因果関係を構成しています。このため、事実を突き止めるためには両事件に対する公正かつ厳密な検証を要するのですが、当時の日本国政府が情報統制を行なったため、肯定派と否定派の双方の主張が平行線のまま今日に至っています。ネットなどでは懐疑論が主流なのですが、少なくともメディアや左派の人々は、映画『福田村事件』にも描かれているように、前者については‘デマ’と断定しています。しかしながら、当時の時代背景を考慮しますと、朝鮮半島出身の人々による個人的な犯罪のみならず、組織的なテロについてもその存在が疑わざるを得ないのです。
とりわけ、上海のフランス租界地に本拠地をもつ社会・共産主義系の活動団体であった義烈団の動きは、日本国内におけるテロ計画あるいは革命改革の存在を強く示唆しています。工藤美代子氏の『関東大震災「朝鮮人虐殺」の真実』では、9月1日に発生した関東大震災を千載一遇のチャンスと見た義烈団が、摂政宮の御婚礼が予定されていた11月27日に実行する計画を前倒ししたとする推論が展開されています。同計画が存在したと仮定しますと、新聞が報じた目撃情報等や当時の日本国政府の対応にも合理的な説明がつきます。
義烈団、並びに、同組織と共闘関係にある日本国内の社会・共産主義組織が、帝都東京を壊滅させる計画を温めていたとすれば、震災直後に各地で発見された‘謎の符号’は、首都一帯を最も効率的に火の海にするための放火地点を印したこととなりましょう。震災初期において横浜から東京に向かったとされる朝鮮人労働者の暴徒集団も、日本国内に設けられていたネットワークを介して事前に組織されていたとも推測されます。日本人の社会・共産主義者も虐殺された亀戸事件も、朝鮮独立運動と社会・共産主義者による革命運動との連携を示しているのかもしれません。
その一方で、日本国内におけるテロ並びに革命計画を事前に掴んでいた日本国政府は、震災に際して同計画の発動が早まった判断して戒厳令の下で即座に軍隊を投入して暴徒の鎮圧に当たったとも考えられます。当初の計画が凡そ三ヶ月先の11月27日であったため、十分な準備期間がなかった’暴徒側’、比較的短期間で鎮圧され、習志野等に収用されてしまったとも推測されるのです。同鎮圧に際して殺害された朝鮮半島出身者が存在したとすれば、おそらく、その数も‘関東大震災朝鮮人虐殺事件’の犠牲者に数えられていることでしょう。
以上に述べたように、既にテロ・革命計画があったと仮定すれば、一連の事件の経緯がより明確に説明できます。もっとも、もう一つ、三次元的な視点、即ち、世界権力の思惑を加えれば、真相はより複雑であった可能性もありましょう。何故ならば、二頭作戦を常とする同権力は、自らが作成した計画に基づいて、対立する双方を裏から操っていた可能性も否定はできないからです。例えば、仮に、震災初期の報道において現実に起きたことよりも過激で扇動的な内容のものがあったとすれば、それは、11月27日向けに準備して作成されていた報道内容をそのまま発表してしまったからかもしれません。今日にあっても、安部元首相暗殺事件に際して指摘があったように、事実と報道内容との間に明らかな相違や辻褄が合わない諸点がある場合には、予めシナリオがあって発信側は事前に知っていたのではないか、とする疑いが生じるものです。
加えて、世界権力介在の疑いは、警察内部やその後の政府の対応にも見受けられます。初期の新聞報道が警察発表に基づくものであり、それが上述したように‘過激で扇動的’であるならば、‘計画実行日’にはそのような内容の発表をするように予め指示を受けていた、あるいは、実行日変更に際して指令を受けたのかもしれません。政府が即座に戒厳令を発布し、一般国民に対して自警団の結成を促したのも、筋書き通りであったのかもしれないのです。何故ならば、世界権力の目的は、日本人対朝鮮人の対立による内乱、あるいは、混乱に乗じた革命を引き起こすことにあったとも考えられるからです。この目的を達成するためには、警察や政府側に配置していた‘協力者’をも動員して双方を煽る必要があったのでしょう(つづく)。