昨日、安保法制違憲論に関連して、都内で「立憲主義の危機」と題するシンポジウムが開催されたそうです。名だたる憲法学者の方々が壇上で講演をなさったと伝わりますが、立憲主義の危機を根拠とした安保法制反対論には疑問を抱かざるを得ないのです。
シンポジウムには出席しておらず、ネット上で紹介されている断片的な情報しか手元にありませんので、本記事に若干の誤解や曲解があるかもしれません(予めご了承くださいませ)。講演では、立憲主義の歴史を詳らかに解説しながら、今日の安保法制を”憲法の根幹を揺るがす”愚かで危険な行為と捉えているようです。”イギリス、ドイツ、アメリカも、憲法の根幹を変えることはしない”と…。しかしながら、近代の立憲主義には、そもそもは、絶対王政、即ち、君主が無拘束な状況で権力を振るう体制に対する抵抗から生じた歴史があり、その本質的な価値は、憲法の下における権力分立による統治の健全化にあります。近代憲法の制定が議会開設とセットになっていたのも、民主的な機関としての議会を統治機構に組み込むことで、国民を含む国全体を考慮した統治の実現が求められたからです(為政者による権力の私物化、統治目的からの逸脱、暴走を防ぐ…)。仮に、立憲主義の本質を揺るがす事態があるとすれば、それは、憲法が定めた相互抑止体制が崩壊し、拘束無き独裁体制が出現する時です。
この点からしますと、防衛や安全保障の権限に拘束を課す日本国憲法第9条は、立憲主義の本質とは関連性がないと考えられます。実際、例として挙げられていたイギリス、ドイツ、アメリカの憲法にも、第9条に該当する条文は存在していません(イギリスには憲法典自体が存在せず、ドイツ基本法で禁じているのは侵略戦争のみ…)。如何なる憲法も、国の安全を脅かすはずはなく(統治機能の否定になる…)、日本国憲法もまた、国際法が許容する範囲の行動を許していると解釈すべきなのではないかと思うのです。
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この点からしますと、防衛や安全保障の権限に拘束を課す日本国憲法第9条は、立憲主義の本質とは関連性がないと考えられます。実際、例として挙げられていたイギリス、ドイツ、アメリカの憲法にも、第9条に該当する条文は存在していません(イギリスには憲法典自体が存在せず、ドイツ基本法で禁じているのは侵略戦争のみ…)。如何なる憲法も、国の安全を脅かすはずはなく(統治機能の否定になる…)、日本国憲法もまた、国際法が許容する範囲の行動を許していると解釈すべきなのではないかと思うのです。
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もちろん一番イケナイのはこんなパチ物を70年間も放置した日本国民であるので、正しい憲法学者のあり方は、その不作為を咎め啓蒙し、一刻でも早く現憲法の改廃を主張することがすべてでしょう。それとも、現憲法を変えずにそのままにしていくことが彼らの利益なのでしょうか?
まことに、日本国の憲法学者は、コーランの一文一句変えてはならなずと主張し、自らの解釈を絶対視する”イスラム原理主義者”の如くです。宗教上の聖典ならばいざ知らず、憲法ともなりますと、常に時代の変化に晒され、かつ、過去の知見や研究の集積により統治機構も発展しているのですから、70年前の憲法を不磨の大典として崇めることは危険ですらあります。仮に憲法学者が自らの使命を憲法改正の阻止こそ自らの利益と考えているとしますと、何らかのバックを疑わざるを得ないのです。
我が国の国会で立憲主義というと「自由を最大限に保証しろ」「と幼児の我儘のレベルの話に終始しているのが現状です。
一例をあげますと、東北の震災のような広域に渡る大規模災害が起きた時は「自由や権利に一部の制限を設ける」というのは、憲法の公共の福祉を優先する、という精神を汲んだものですが、野党の言う事は、どんな時にも自由と権利には制限をかけてはならない・・
安保法制も国家・国民の生命財産をいかに守るかが焦点のはずですが「国民の自由が奪われるから反対」「戦争になるから反対」・・・
議論されている事の内容を理解していないばかりでなく事の本質が理解できていない。
与党の案には何でも反対・・
それで「国民の生活が第一」「国民を豊かに」・・・
国会議員の前に小学校の国語からやり直した方が良いと思うのです。
物事の整合性や、些細な事が引き金となって引き起こされる深刻な事態・・・水面に石を投げると波紋が広がる事がわからない・・
試験では一つ一つの設問が独立し関連を持ちませんので、一問目と十問目が矛盾していても、何ら疑問を持たず正しいとされる解答を書いてしまう。
クイズ番組のクイズと同じで、正解とされる解答が明らかな間違いを含んでいたとしても、出題者が、これが正解だと言えば、それが正解となる。
此のような、おかしな事態が起きているにも関らず誰も疑問を持たない。
これこそが本当に恐ろしいことなのです。
物語の中の世界のように単純化されていないのが現実です。
現実には相反する事は多々あり、矛盾も数多く抱えているのです。
それらの事を解決する為の智慧が故事であり古典であり歴史なのです。
人間が本能のままに享楽や安易さを求めるなら、国土は荒廃し科学文明も維持できません。
また、享楽を求めるあまり安易に移民や外国人労働者に頼ろうとすれば国家は乗っ取られ滅びの道をたどることになります。
しんどい・辛い・眠い、などと言いながらも国民が自ら汗を流し働き国家を支えてゆくしかないのです。
互いに「ご苦労様」「大変だね、頑張って」などと和やかな挨拶を交わし励まし合いながら、日々汗を流して働き税を収めている国民の税によって禄を食みながら、領土領海、国家・国民の生命と財産を守る為の法整備には反対・・いかに物事を整理して考える能力に欠けているか、物事の本質を理解できないか、物事をマクロの視点で捉えられないか、よくわかりますね。
現在の我が国に憲法で制限を設けねばならないほどの絶対的権力・権威は存在するでしょうか。
それよりも暴走する民意をいかに押さえるかが重要な課題でしょう。
盲目的な舶来信仰、教科書で学んだ知識を振り回して現実が見えないのが立憲主義を口にする知識人なのです。
シンポジウムに参加されておられます憲法学者の方々は、憲法学の世界では高名であられまして、私も、教科書として著書を拝読したことがあります。解説的な内容でしたので、その時は、然程には疑問を感じなかったのですが、今日、安保法制を強硬に反対されていることを知り、いささか驚いております。一方、今回の件は、憲法学とは何なのか、という根本的な問題をもまた、提起しているようにも思えます。もしかしますと、将来に向けての発展性をもった”未来志向の憲法学”というものが必要とされる時代に至っているのかもしれません。