近代思想としての共産主義は、階級闘争史観に基づいてプロレタリア独裁を唱えたカール・マルクスに始まります。しかしながら、しばしば制度的な前例として、中国大陸における均田制が取り上げられることがあります。
均田制とは、北魏の孝文帝が485年に初めて導入した制度であり、政府が一人当たり同一の面積の口分田を給付するというものです。この制度が共産主義と結びついているのは、(1)国民間において財産が平等であること、(2)土地の所有者は国であること、(3)口分田は世襲ではなく一代限りであること…などの特徴があるからです。平等の観点からしますと、確かに個々人の間には経済的な格差はなく、口分田が保障されており、生涯、生活が安定するのですから、熱心な共産主義者の中には、理想的な制度と礼賛する人も少なくありません。しかしながらこの制度、皇帝が、国民を慮って、国民間の平等を実現することを目的として導入したのでしょうか。実のところ、その逆ではないかと推測するのです。北魏とは、騎馬遊牧民族である鮮卑族が南下し、華北一帯を統一して建国した国であり、この際、漢人系農民をも支配下に置くことになりました。均田制とは、遊牧民ならではの発想であり、農民をあたかも”家畜”の如くに管理するために必要とした制度ではないかと思われるのです。この観点から見ますと、先に指摘した制度的な特徴は、(1)家畜は相互に平等であり、(2)家畜には土地の所有権は必要なく、(3)家畜には家族は存在しない、ということになります。日本国でも班田収授の法として導入されたものの、施行とほぼ同時に崩壊過程に入りますが、この制度の発想は、農耕民族から生まれるものではありません。実際に農業を営んできた農民は、水利、土壌、日当たり…によって口分田の平等が現実には不可能であることをよく知っていますし、土地への愛着、家族総出での農作業、知識や技術の伝承…などが一代給付制度とは相いれないことを熟知しているからです。
このように考えますと、案外、近代思想としての共産主義もまた、その隠れた目的は、労働者管理制度の創設であったのかもしれません。そして、ミニマムインカムや移民受け入れなどの政策を唱える新自由主義にも似たような危険性が潜んでいるように感じるのは、私だけでしょうか(この場合の”騎馬遊牧民族”は、人を単なる労働力としてしか見ない中国を含むグローバル金融資本?)。
よろしければ、クリックをお願い申し上げます。
にほんブログ村
均田制とは、北魏の孝文帝が485年に初めて導入した制度であり、政府が一人当たり同一の面積の口分田を給付するというものです。この制度が共産主義と結びついているのは、(1)国民間において財産が平等であること、(2)土地の所有者は国であること、(3)口分田は世襲ではなく一代限りであること…などの特徴があるからです。平等の観点からしますと、確かに個々人の間には経済的な格差はなく、口分田が保障されており、生涯、生活が安定するのですから、熱心な共産主義者の中には、理想的な制度と礼賛する人も少なくありません。しかしながらこの制度、皇帝が、国民を慮って、国民間の平等を実現することを目的として導入したのでしょうか。実のところ、その逆ではないかと推測するのです。北魏とは、騎馬遊牧民族である鮮卑族が南下し、華北一帯を統一して建国した国であり、この際、漢人系農民をも支配下に置くことになりました。均田制とは、遊牧民ならではの発想であり、農民をあたかも”家畜”の如くに管理するために必要とした制度ではないかと思われるのです。この観点から見ますと、先に指摘した制度的な特徴は、(1)家畜は相互に平等であり、(2)家畜には土地の所有権は必要なく、(3)家畜には家族は存在しない、ということになります。日本国でも班田収授の法として導入されたものの、施行とほぼ同時に崩壊過程に入りますが、この制度の発想は、農耕民族から生まれるものではありません。実際に農業を営んできた農民は、水利、土壌、日当たり…によって口分田の平等が現実には不可能であることをよく知っていますし、土地への愛着、家族総出での農作業、知識や技術の伝承…などが一代給付制度とは相いれないことを熟知しているからです。
このように考えますと、案外、近代思想としての共産主義もまた、その隠れた目的は、労働者管理制度の創設であったのかもしれません。そして、ミニマムインカムや移民受け入れなどの政策を唱える新自由主義にも似たような危険性が潜んでいるように感じるのは、私だけでしょうか(この場合の”騎馬遊牧民族”は、人を単なる労働力としてしか見ない中国を含むグローバル金融資本?)。
よろしければ、クリックをお願い申し上げます。

放牧民は、一カ所に留まる事がなく牧草地を探して移動しますので、約束を守る・契約といった概念が希薄で、その場限りの損得勘定が優先されます。
中国や韓国が条約や法を守らない、どこにでもゴミを捨てるトイレなどの衛生観念が無い・・これも遊牧民の特徴の一つです。
共産主義は中華思想に一番類似しているといえると思います。
支那の皇帝は天意を受けたものであり、皇帝以外は皆平等に奴隷という考え方であり、宦官も奴隷の中でより皇帝に近い所で仕える者とする見方もあります。
近代の共産主義と資本主義の違いは、富の再配分に対する考え方の違い・・・
資本主義は持つ者と、持たざる者、ある程度の格差が生じる事を前提にしており、国家が税という形で、それぞれの所得に応じた負担を課し富を集め再配分することで社会的な格差を埋め、なるべく平等な社会を形成しようとする考え方で、分配率を大きくするためにも自由な経済活動が必要とする、いわゆる重商主義的な考え方です。
共産主義は格差を認めない・・・と、いいますか、格差こそが悪であるという考え方に立っているのです。
格差を産まない為には、個人資産を一切認めない、全てを国家が管理し平等に分配するという考え方です。
新自由主義は、もっと過激で無政府主義に近い所があります。
「国家は余計なことはするな、全て自由にさせろ」
国家は必要最低限のことだけで、限りなく自由にしておけば全てうまく行く、と考えるのが新自由主義の思想です。
フランス革命で唱えられた立憲主義「憲法は権力を縛るものである」
フランス革命以前の王侯貴族による専制主義に対する不信感から生まれでた考え方です。
自由・平等・博愛の美しいスローガンのもと、行われたフランス革命がジャコバン派の専制を生み出してしまうとは皮肉なものです。
こうして、共産主義・自由主義・新自由主義を改めて振り返って見ますと・・・
我が国の、過度ではない権力による規制。
思想・言論・学問の自由を認め、私有財産を認めてきた事で庶民が豊かであり、庶民の中から文化が生まれそれが洗練され日本文化として花開いて来たことを鑑みます時に思うのは、共産主義的な考え方も自由主義的な発想もバランスよく混在している事が肝要なのであって、どちらかが優れていると言うようなイデオロギー論争こそが不毛なものであると考えます。
公権力で規制を掛ける必要がある部分、庶民の自由な発想に任せていい部分、この線引をしっかりとする事が大切なのですが、中華思想には最初から、此のような発想が無いことが、世界的に混乱を引き起こす問題児と言われる所以でしょう。
香港の学生との話し合いは、中国側が拒否し、香港の行政長官は「貧困層にも政治的権利を与えると無茶苦茶になってしまう」と完全に民主主義を否定するコメントを出しています。
共産主義を理想とする人々、そして、共産主義体制の下にある中国の国民も、そろそろこの思想の頸木から自由になるべきです。理想と現実が違うことは、香港の梁行政長官が自ら告白しております。プロレタリアート独裁が共産党一党独裁体制に正当性を与えているにも拘わらず、貧困層や労働者は政治から排除すべきと、堂々と述べているのですから。共産主義体制の自己矛盾もここに極まれり、という感があります。一旦、ここで立ち止まって、中国は、共産主義のイデオロギーを再検討してみるべきではないかと思うのです。
日本も唐の脅威にさらされて、模倣したのだろう。昔の兵は武器も自前なので、生計が立つようにしておかなくてはならなかった。
班田収受の崩壊とともに、防人などの兵が私的武装集団となったのだろう。これが武士集団の誕生。
共産主義はユダヤ・キリスト教文明が生み出したもの。特徴は理屈っぽいということ。理屈と現実を付き合わせるということが少ない。三位一体とか魔女狩りとか、処女懐胎とか阿呆らしい理屈を捏ねるのと似ていている。理屈と科学主義の暴走が共産主義の特徴。
アメリカも、理屈と科学主義の暴走ではそっくりである。”選択と集中”とかいう経営論も理屈では正しい。だが、切り捨てられる部分に、長年、生涯をかけて精励してきた労働者もいる。人は機械のパーツではないのだ。選択された分野の人も、明日はわが身と言う不安に陥るだろう。
将来のことは、90%以上、誰もわからないのだ。だから日本人は、ただひたすら祈るのだ。古来の神道に理屈(教義)がないのはそのせい。
あなたは共産主義を憎むあまり、反共という理屈を捏ねている。中国の将来など、誰が知るか?WHO KNOWS?だ。私なら混乱のない軟着陸を祈るだけのことだ。中国の崩壊などいくら言っても所詮、理屈に過ぎない。先はわからないのだ。