万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

核武装は‘絶対悪’なのか?-日本国の選択肢

2023年08月16日 10時58分33秒 | 日本政治
 日本国は、第二次世界大戦の末期にあって原子爆弾が投下された、唯一の被爆国として知られています。広島並びに長崎における原爆による惨状は筆舌に尽くしがたく、壮絶な被爆の経験は、日本国にあって激しい反核運動や核廃絶運動の原点ともなってきました。その多くは、‘民間人をも大量に殺戮する非人道的な兵器である原子爆弾が、二度と炸裂することがあってはならない’とする一途な願いから発しているのでしょう。かくして、原子爆弾という存在そのものが‘絶対悪’とされ、日本国の核武装の選択肢もはじめから‘存在してはならないもの’としてタブー視されてきたのです。

 しかしながら、現下のウクライナ紛争のみならず台湾有事も現実味を帯び、第三次世界大戦への拡大さえ懸念される今日、核武装を‘絶対悪’と見なす論調は、むしろ、核兵器国の軍事行動をサポートしかねないリスクがあります。これは、善意が悪に利用されるリスクとも言えましょう。このように考える主たる理由には、以下の二つがあります。

 第一の理由は、核兵器には、攻撃面における破壊力のみならず、破壊力と比例する強力な抑止力が認められる点です。核兵器の存在そのものを‘絶対悪’と見なす考え方は、前者、すなわち、破壊力という一面でしか核兵器を評価していません。平和=核兵器の廃絶という主張は、破壊力の一面性において成り立つのであって、抑止力という核兵器の裏側の一面を視点に加えますと、脆くも論理が崩壊してしまいます。平和=核の抑止力の完備という別の可能性が提起されるからです。平和が善であるならば、後者の選択肢も善と言わざるを得ないのです。なお、冷戦期に唱えられた相互確証破壊論も、その名とは裏腹に核の抑止力に立脚した理論であり、相互確証抑止論と表現した方がその本質を言い当てているかもしれません。

 第二の理由は、‘持つ者と持たざる者’との残酷なまでの非対称性です。第二次世界大戦末期にあって、連合国陣営、枢軸国陣営を問わずに原子爆弾の開発に各国が鎬を削ったように、核保有の有無は、戦争の勝敗を決する物理的な決定要因となり得ます。言い換えますと、核兵器は、それを保有する側のみが、破壊力並びに抑止力の両者を享受することができるのです(古典的な勢力均衡論も核兵器国相互間にしか働かない・・・)。

 かつては、核兵器の保有の有無による絶対的な非対称性は、開発・保有の時間差によって齎されてきました。アメリカを最初の保有国としますと、その後、イギリス、ソ連、フランス、中国、インド、イスラエル、パキスタンと続き、開発に成功した国から順次に攻撃・防御の両面における絶対的な優位性を獲得していったのです。仮に、核兵器の開発・保有に制限がない状態が続いたとすれば、やがて全世界の諸国が核兵器を保有するに至ったことでしょう。しかしながら、核兵器の破壊力のみに注目してこれを危険視する見方は、国際社会における核拡散防止条約の成立を後押しします。かくして同条約が成立した70年代以降、時間差ではなく国際条約による縛りによって、核兵器に絶対的な非対称性が固定化されてしまうのです。NPT体制にあって核保有を試みようとすれば、国際法に違反する行為としてバッシングされるのみならず、ウクライナ紛争を見る限り、有事に際しても同条約からの脱退オプションがタブー視されているのが現状なのです(おそらく、核の独占体制を維持したい世界権力の意向・・・)。

 軍事同盟国の間にも生じる保護・非保護関係を軸とする非対称性については別に論じるとしても(‘核の傘’の提供による属国化・・・)、軍事大国による核兵器の独占状態が、必ずしも平和に寄与していないことは、ロシアや中国等の行動を見れば明らかです。中国が台湾の武力併合を虎視眈々と狙い、日本国の支配にも野心を抱く今日、核武装の選択肢は、唯一の被爆国を根拠として‘絶対悪’として排除すべきなのでしょうか(恐怖心は得てして判断力を鈍らせてしまう・・・)。日本国が核を保有すれば、日中間に核の相互抑止が働きますので、懸念されている日中戦争が起きるリスクも低下することでしょう。核の抑止力によって戦争が未然に防止され、1億2千万人ともされる日本国民の命を守ることができるとすれば、次善の策として許容されるべきではないかと思うのです。

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