昭和天皇の玉音放送をもって国民に終戦が告げられた8月15日は、日本国民にとりまして特別な日でした。毎年、厳かな空気に覆われ、誰もが神妙な心持ちでこの日を迎えてきたました。しかしながら、今年は、どこか漂う空気が違っているようにも思えます。空気を変えてしまった要因の一つは、おそらく安部元首相の暗殺事件にあったのかもしれません。何故ならば、この事件を機に、疑いの段階にあったものが、事実であることが判明してしまったからです。その疑いとは、保守政党、否、政界全体が、偽旗作戦も厭わない世界権力の下部組織なのではないかというものです。
数年前までであれば、麻生副総裁の‘戦う覚悟’発言も、保守層全体から擁護論が湧き上がったことでしょう。しかしながら、グローバルな巨大利権集団である世界権力が、新興宗教団体をも利用しながら各国の政治家を背後から操っていたとなりますと、国民の政治に対する認識も大きく違ってきます。‘二度あることは三度ある’を逆から読めば‘三度あったことは二度あった’ともなるのですが、世界権力による露骨なまでの第三次世界大戦への誘導は、過去の二度の世界大戦もまた意図された戦争であった可能性を強く示唆しているのです。
戦時にあっては、交戦状態にある双方の国が相手国を絶対悪と見なし、愛国心を鼓舞すると共に敵国の打倒をもって自らの大義の実現を主張するものです。しかしながら、現実の戦争を見ますと、正当防衛を主張し得る純粋な防衛戦争は稀であり、何れの国も自らを正当化する口実を準備しています。ロシアによる一方的な侵略と見なされているウクライナ紛争でさえ、ウクライナ側に非が全くないわけではありません。慎重に細部まで観察しますと、内戦を激化させ、平和的な解決に失敗したゼレンスキー大統領に戦争責任がないとは言えないのです。民族紛争であれ、領土問題であれ、何であれ、世界権力にとりまして、全世界に戦争の‘口実’が転がっている方が望ましいのでしょう(台湾問題もその一つ・・・)。
加えて、いざ開戦ともなれば、時の為政者が掲げる大義によって国民は扇動され、国に命を捧げる行為が崇高な自己犠牲として奨励されます。この崇高な精神も、それが心から賞賛されるのは防衛戦争、すなわち、正当防衛に限られるのですが(少なくとも今日の価値観では・・・)、古今東西を問わず、戦争における自国民の犠牲は致し方ないことと見なされてきたのです。この犠牲に対する崇敬と甘受の精神にも、戦争を自己の目的や利益のために悪用したい者達は利用価値を見出しているのでしょう。とりわけ三次元に位置する世界権力は、何れの国民に対しても保護責任を負う立場にはなく、戦争を起こすことに成功さえすれば、上部から敵味方に関係なく全ての国の国民、つまり人類を‘虐殺’することができるのですから。戦争のみならず、革命やパンデミックも同様の構図なのかもしれません。
過去において世界権力が世界大戦を引き起こしてきたとすれば、自国内部にあってもその協力者が存在していたことは想像に難くありません。信憑性は定かではないものの、枢軸国の指導者であったヒトラーやスターリンのみならず、連合国医陣営のルーズベルト大統領やチャーチル首相も世界権力のパペットであったとする説もあります。枢軸国側で戦った日本国にあっても、当時の戦争指導者達が真に日本国民を慮っていたのか、疑問がないわけではないのです。
このように考えますと、今日、日本国内の保守層は、二つに分かれる可能性があるように思えます。その一つは、中国大陸や朝鮮半島といった‘外地’をも包摂している大日本帝国系の保守であり、今日のグローバリスト、すなわち世界権力を後ろ盾とする人々です。CIAやKCIAのサポートも受けていたとされる元統一教会との関係を考慮しますと、故安部首相や麻生副総裁をはじめ、自民党の政治家の大半はこの系譜に属するのでしょう(海外優先の姿勢を見る限り、岸田首相も同系譜では・・・)。もう一つの保守とは、日本国並びに日本人の命を大切に思う一般の保守層の人々です。そして、今日、前者の’保守’を偽旗ではないかと疑っているのは、後者の保守層なのです。
前者の人々は、自らの後ろ盾である以上、世界権力が命じる第三次世界大戦へのシナリオに従うのでしょうが、第三次世界大戦を三次元戦争と見なす後者の人々にとりましては、戦争回避こそが至上命題となりましょう。戦争反対は平和主義を唱えてきた左派勢力と主張を同じくしながらも、戦争を望まない後者の保守の方がよほど日本国並びに日本国民を大事に思っているのではないかと思うのです。