万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

民主主義には国家の枠が必要では?-独立性と自治の行方

2022年11月23日 13時34分50秒 | 統治制度論
 民主主義の価値を端的に表す言葉として、リンカーン大統領の「人民の、人民による、人民のための政治」というフレーズがしばしば引用されてきました。この誰もが知る有名な言葉は、民主主義国家とは、‘人民’自身による自治を実現する国家体制を意味することの表明であることは言うまでもありません。しかしながら、‘人民(the people)’とはどのような集団なのか、という点については、これまで深く議論されてはきませんでした。このため、今日では、‘人民’を‘人類’全体とみなすグローバル民主主義も提唱されることとなったのですが、果たして、国境も国民も消え去ったグローバルなレベルでの民主主義は成り立つのでしょうか。

 国境を越えた広域的な民主主義については、しばしばヨーロッパにおいて誕生したEUが引き合いに出されてきました。EUは、それ独自の統治機構を備えており、欧州議会選挙やイニシャチヴの導入等は、同機構が民主主義を基本原則として設計され、かつ、改良されてきたことを示しています。その一方で、加盟国からEUに政策権限が移るほどに民主主義のレベルが低下する、‘民主主義の赤字’問題に悩まされてきており、今日なおも、同問題は完全には解決されていません。否、むしろEUは、民主主義の広域化の限界を示しているとも言えましょう。

 EUが示す限界点とは、主に、加盟国間における文化や国民性の多様性のみならず、人口規模や経済規模における著しい格差に起因しています。とりわけ人口規模は、一票の価値の平等を求める民主主義にあって、政策決定や立法における主たる決定要因となるからです。‘政治は数’と揶揄されるのも数の力がものを言うからに他ならず、単純多数決という決定方法は、人口規模の大きな国に絶対的な優位性を与えます。その一方で、国家連合であるEUは国家の枠組みを維持していますので、一国家一票同価値では、今度は、人口規模の大きい国に不満が生じてしまうのです。

このため、EUでは、各国の理事会での票数や欧州議会の議席数に関しては、大国に対しては人口比よりも少なめに配分しつつ、小国には多めにすることで‘数の力’のバランスを取ろうとしています。大国の‘支配’と小国の‘反乱’の両者を封じると共に、国家間の平等と欧州市民間の平等の両者を満足させなければならないのです。こうした制度的な工夫にも拘わらず、今日、経済力においても優るドイツの一人勝ちが指摘され、また、トルコ加盟が人口問題から頓挫しているように(民主主義の‘数の論理’を徹底させてしまった場合、人口規模の大きいトルコが、ヨーロッパの命運を決めることになる・・・)、数の力は、EUの方向性をも決定する重要な作用を持つのです。さらに、欧州委員会が主導権を握りますと、’欧州益’なるものが優先され、構成国の国益は二の次とされるのです。

 以上に述べたEUのジレンマは、グローバル民主主義の実現が如何に困難であるのかを物語っています。国家の枠組みが維持されているEUでさえ、無制限にEUに政策権限を移譲しますと、自国の民主主義体制が融解してしまい、人口大国に決定権を握られかねないからです。政策決定権を手放すことは、国家としての独立性を喪失することと凡そ同義となります。仮に、国境をなくし、国民の枠組みをも融解させるとしますと、そこに待っているのは、人口大国による支配かもしれません。

国民の枠組みが維持されている限り、政治的独立の権利を有する各民族は、国家という枠組みにおいてマジョリティーであり、固有の文化や伝統、慣習などを維持し、自らの社会を築くことができます。しかしながら、一端、その枠組みが崩壊しますと、全体に対する人口比が劇的に変化しますので、もはや自治を実現することはできなくなるのです。しばしば、EUの形成期にあって、肯定的な意味において‘卵の殻を割らなければ、オムレツはできない’と言われたのですが、国境という殻を割った結果、不味くて食べられないようなオムレツができあがるかもしれません。否、不味いならまだしも、このオムレツは、人口大国、あるいは、言葉巧みに国家を消滅させることに成功した世界権力によって食べられてしまうかもしれないのです(後者のケースでは、最終的には、全ての人種や民族がメルティングされ、’人類益’あるいは’地球益’の名の下でITやAIによる官僚支配となるかもしれない・・・)。

日本国を事例として想像してみますと、その問題性がより理解されます。今日、日本国内での中国系やインド系の人口数は全人口の数%に過ぎませんが、国家の枠組みが消えた途端、人口大国出身者がマイノリティーからマジョリティーへと一気に躍り出るからです。全体的な枠組みでは日本人住民がマイノリティーに転落すると共に、グローバルレベルでの統治にあっては、常に同レベルで決定された事項に従う存在に過ぎなくなりましょう(もっとも、政治家が世界権力の支配網に組み込まれていれば、水面下では既に同状態に至っている可能性も・・・)。結局、古来人々を苦しめてきた‘異民族支配’を現代に蘇らせてしまうかもしれないのです。

たとえ普遍的な価値であっても、一定の限界や枠を設けませんと無意味となることも稀ではありません。ゼノンの「アキレスと亀」の詭弁のように、時間も空間もない無限世界での価値の追求は徒労となり、いつまでたっても追いつけないこともあるのです。民主主義もグローバルレベルでこれを追い求めても、それは虚しい努力となりましょう。「the people」を「国民」ではなく「人類」とみなし、「人類の、人類による、人類のための政治」を目指してひた走っても、結局、民主主義には到達せず、後ろを振り返りますと、民主主義の別表現である国民自治、即ち、国民主権が置いていかれているのですから。多くの人々がこのパラドックスに気がつくとき、民主主義の真の価値がより明瞭に理解されるのではないかと思うのです。

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