OCN Cafe でやってました浪花八百八橋シリーズをこちらで続けることにしました。
お江戸が八百八町 京都が八百八寺 大坂が八百八橋 凄く大坂は橋が多かったと言う意味ですよ。
1000以上の橋が出来た大坂には公儀橋はたったの12箇所しかおまへんでした。
大半の橋は町人や商人が私財を投じて江戸時代に架けられたというルーツがあります。
今回は公儀橋の内で「京橋」を紹介する事にしますかな。
「京橋」は京都から京街道の終点であり、奈良へは大和街道の起点として大事な橋と言われていました。
(京橋) (江戸時代に大坂で一番重要だった公儀橋)
「京橋」(きょうばし)と言う地名は東京都内にも有り、こちらは きょうばし~ となめらかに読みます。
大阪では ↑きょうばし と最初に強くアクセントを付けて発音する違いがありますね。
鉄ちゃん爺やが、大阪流で読んだら東京では、通じなかった経験がありますよ。
昔は公儀橋の威厳を保つ「擬宝珠」(ぎぼし)と言う立派な飾りが付けられた橋だったそうです。
なにせ大坂城に勤めた役人や武士はこの橋を渡り、その先で川崎の渡しを使って通勤したようですな。
昔の公儀橋なのに現在は殺風景なコンクリート製で幻滅を感じる橋に成ってしまいましたね。
もう少し趣のある橋に造って欲しかったと思うのは私だけかしら。
(京橋口) (江戸時代には役人の通用門だったかな?)
1945年(昭和20年)終戦の1日前の空襲で門は焼け落ちてしまいました。
現在は石垣だけが当時のままで残っているだけですな。
(肥後石) (京橋口の正面奥に有ります)
鉄ちゃん爺やが学生の頃まではこの石が大阪城で一番大きいと聞かされていました。
ファイバースコープで大学の偉い先生が探索した結果、現在は二番目の大きさだそうです。
それでも100トンを軽く上回る巨岩には変りはないですけどね。
加藤清正が運んだとの伝説ですが本当は徳川時代になってから置かれた石ですけど。
(大手門) (正面の門で 偉い人しか通れなかったのかな?)
追手門(おってもん)とも呼ばれ1848年(嘉永元年)に建てられた物だそうです。
大阪城の門としては江戸時代から残っている唯一の建物でもありますかな。
蛇足ながら大阪府庁の本館はこの門を挟んでお堀の反対側に有るんですよ。
(蛸石) (たこいし)
天守閣へ向かう「桜門」の奥に大きな石が横たわっています、これが現在では大阪城で一番大きい石と言われてます。
推定で140トンは超えるだろうと言われていますよ。
でも本当の事はファイバースコープでの探索だから定かではないかも知れませんね。
(千貫櫓) (せんかんやぐら)
大阪城の建物ではこれが一番古いと言われ1620年(元和6年)の建築で奇蹟的に焼けずに残った重要文化財だそうです。
明治維新の頃の出火や大阪空襲による焼失で大阪城の江戸時代の古い建物は殆んど残っていないようです。
勿論、太閤秀吉時代の大阪城は痕跡すら残っていないのが真実なんですよ。
それでも大阪人にとって大阪城は今でも太閤秀吉のお城だとの想いがあるんですよね。