デジカメを持って大和川の辺りを約2万歩ほど散歩してきました。
大和川は大阪府では淀川に次ぐ第二位の川ですが全国的に眺めれば
流域面積1070k㎡で本流の延長が68kmしかありません。
1級河川でも中規模の川なんですが大昔から大阪湾と奈良や飛鳥を結ぶ
重要なルートで明治時代までは船便にも利用されたそうです。
まずは我が町から200円の電車賃を払って柏原市へ向う事にしました。
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photo by kuroda0729 from OCNフォトフレンド
現在の大和川は奈良盆地の水を集めて奈良県王寺町(標高45m)から
亀の瀬を通って大阪府の柏原市(標高20m)に出て来ます。
そのまま西進して大阪市と堺市の境界を通過して大阪湾に注いでいます。
でも江戸時代の17世紀までは柏原市から北へ流れて多くの支流に別れ
深野池や新開池などを経て大坂城の手前で再び纏まった後に
大坂城の北側で淀川(現在の大川)に合流していました。
(大和川百話)
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大阪市内に上町台地という丘陵が有るので生駒山とに挟まれた河内平野では
大和川の流れを妨げて土砂を大量に堆積したようです。
徳川時代には上流の山々が木の根まで掘り返されて燃料や木材に使われ
大雨が降るたびに河内平野は泥海になる事が多くなりました。
江戸幕府は川浚いをして淀川や大和川の排水に努めたようですが
延宝年間(1680年代)には15回もの大水害で河内平野は水没しました。
(旧 大和川の流域図)
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河内平野の村民は大和川の付替えを嘆願し逆に新しく川筋になる村民は
付替え反対で双方が50年以上も争いが絶えなかったそうです。
江戸幕府も川浚いでお茶を濁す事しか出来ず時代が下がるごとに深刻な
洪水の被害が続くことに頭を悩ましていたようですな。
河内の今米村(現東大阪市)の庄屋を勤める中甚兵衛の訴えが当時の
勘定奉行荻原重秀や若年寄り稲垣対馬守重富を動かしたようです。
悪名高い金貨の改悪で有名な勘定奉行荻原重秀でしたが経済政策や
治水対策では河内の国の住民には大恩人とも言えますかな。
(大和川 付替え工事分担図)
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普請奉行に大久保甚兵衛忠高と伏見主水為信が5代将軍綱吉により
任命され助役として姫路城主本多忠国(15万石)が命じられました。
元禄17年3月から工事が始まって直ぐに本多忠国が急死してしまいます。
幕府は直ぐに岸和田城主岡部長泰・明石城主松平直常・三田城主九鬼隆方
にお手伝い普請を命じ上流部分は幕府直轄としたようです。
(新大和川 掘削・築堤盛り土 断面図)
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新大和川の途中には瓜破(うりわり)台地と浅香山台地が有り
これを掘り下げて新しい水路を造るのが一番の難工事だったようです。
この難工事の部分は3大名(合計14.9万石)に任せて幕府直轄部分は
万年長十郎(代官)が堤奉行として中甚兵衛や村民の協力で
一番楽な盛り土だけで済む工事区間を担当したようですな。
(中甚兵衛の 銅像) (付け替え300周年に設立)
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大和川の付替え工事は1704年(元禄17年3月)に始まり途中で元号が
宝永に変ったが1704年(宝永元年10月13日)に完成しました。
工事区間14.3kmをたったの224日で完成させたとは現在から
考えても驚異的な人海戦術と工事を競争させた結果なんでしょうな。
(新 大和川右岸堤防のクスノキの巨木)
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この大和川付け替え工事は川幅10間(182m)で北側堤(右岸)は高さ
3間(5.4m)堤敷15間(27m)馬踏み3間(5.4m)
南側堤(左岸)は高さ2.5間(4.5m)堤敷12間半(22.5m)
馬踏み2.5間(4.5m)で造られました。
右岸の方が1mほど高く造られた要因は土地が北側へ緩やかに傾斜しているのと
新しい大和川が右岸へ圧力をかける流れに成るからとの考え方らしい。
(新 大和川と 築留二番樋の取り水口)
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(築留二番樋) (文化庁の登録文化財)
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新大和川が完成した時に旧の大和川への水路を閉じたのがここ築留(つきどめ)で
旧の大和川には農業用の用水路が設けられたそうです。
現在の築留二番樋は明治40年頃にレンガ造りで建造さ
現在も用水路として柏原市や八尾市で使用されていますね。
(築留地区 利水事業の石碑)
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徳川幕府の正式歴史書である「徳川実記」にはこの付替え工事の中心人物である
中甚兵衛は勿論の事ながら堤奉行である万年長十郎でさえ記録が有りません。
普請奉行の大久甚兵衛と伏見主水が将軍綱吉から功労により
時服を頂戴したこと、その後に大久保甚兵衛が昇進して
大坂西町奉行に成ったことしか記録されていないそうです。
中甚兵衛は大和川付け替え工事の現場責任者である大久保甚兵衛と
名前が同じなので「甚助」と改め以後、子供の代から甚兵衛を名乗らず
「九兵衛」と称する事にしたそうです。
中甚兵衛は苗字帯刀を許されたのが記録に残る唯一の業績で
この時期の人物としては珍しい92歳の長寿を全うしたそうです。
300周年を記念して築留地区に銅像が建てられたのが平成16年の事でした。
(大和川本流に合流する石川を 築留地区の堤防から撮影)
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日記が長くなりましたので次回は新大和川の難工事だった
浅香山の辺りからか下流を訪ねて見る事にしました。
大和川は大阪府では淀川に次ぐ第二位の川ですが全国的に眺めれば
流域面積1070k㎡で本流の延長が68kmしかありません。
1級河川でも中規模の川なんですが大昔から大阪湾と奈良や飛鳥を結ぶ
重要なルートで明治時代までは船便にも利用されたそうです。
まずは我が町から200円の電車賃を払って柏原市へ向う事にしました。
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photo by kuroda0729 from OCNフォトフレンド
現在の大和川は奈良盆地の水を集めて奈良県王寺町(標高45m)から
亀の瀬を通って大阪府の柏原市(標高20m)に出て来ます。
そのまま西進して大阪市と堺市の境界を通過して大阪湾に注いでいます。
でも江戸時代の17世紀までは柏原市から北へ流れて多くの支流に別れ
深野池や新開池などを経て大坂城の手前で再び纏まった後に
大坂城の北側で淀川(現在の大川)に合流していました。
(大和川百話)
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photo by kuroda0729 from OCNフォトフレンド
大阪市内に上町台地という丘陵が有るので生駒山とに挟まれた河内平野では
大和川の流れを妨げて土砂を大量に堆積したようです。
徳川時代には上流の山々が木の根まで掘り返されて燃料や木材に使われ
大雨が降るたびに河内平野は泥海になる事が多くなりました。
江戸幕府は川浚いをして淀川や大和川の排水に努めたようですが
延宝年間(1680年代)には15回もの大水害で河内平野は水没しました。
(旧 大和川の流域図)
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河内平野の村民は大和川の付替えを嘆願し逆に新しく川筋になる村民は
付替え反対で双方が50年以上も争いが絶えなかったそうです。
江戸幕府も川浚いでお茶を濁す事しか出来ず時代が下がるごとに深刻な
洪水の被害が続くことに頭を悩ましていたようですな。
河内の今米村(現東大阪市)の庄屋を勤める中甚兵衛の訴えが当時の
勘定奉行荻原重秀や若年寄り稲垣対馬守重富を動かしたようです。
悪名高い金貨の改悪で有名な勘定奉行荻原重秀でしたが経済政策や
治水対策では河内の国の住民には大恩人とも言えますかな。
(大和川 付替え工事分担図)
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photo by kuroda0729 from OCNフォトフレンド
普請奉行に大久保甚兵衛忠高と伏見主水為信が5代将軍綱吉により
任命され助役として姫路城主本多忠国(15万石)が命じられました。
元禄17年3月から工事が始まって直ぐに本多忠国が急死してしまいます。
幕府は直ぐに岸和田城主岡部長泰・明石城主松平直常・三田城主九鬼隆方
にお手伝い普請を命じ上流部分は幕府直轄としたようです。
(新大和川 掘削・築堤盛り土 断面図)
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photo by kuroda0729 from OCNフォトフレンド
新大和川の途中には瓜破(うりわり)台地と浅香山台地が有り
これを掘り下げて新しい水路を造るのが一番の難工事だったようです。
この難工事の部分は3大名(合計14.9万石)に任せて幕府直轄部分は
万年長十郎(代官)が堤奉行として中甚兵衛や村民の協力で
一番楽な盛り土だけで済む工事区間を担当したようですな。
(中甚兵衛の 銅像) (付け替え300周年に設立)
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大和川の付替え工事は1704年(元禄17年3月)に始まり途中で元号が
宝永に変ったが1704年(宝永元年10月13日)に完成しました。
工事区間14.3kmをたったの224日で完成させたとは現在から
考えても驚異的な人海戦術と工事を競争させた結果なんでしょうな。
(新 大和川右岸堤防のクスノキの巨木)
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この大和川付け替え工事は川幅10間(182m)で北側堤(右岸)は高さ
3間(5.4m)堤敷15間(27m)馬踏み3間(5.4m)
南側堤(左岸)は高さ2.5間(4.5m)堤敷12間半(22.5m)
馬踏み2.5間(4.5m)で造られました。
右岸の方が1mほど高く造られた要因は土地が北側へ緩やかに傾斜しているのと
新しい大和川が右岸へ圧力をかける流れに成るからとの考え方らしい。
(新 大和川と 築留二番樋の取り水口)
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(築留二番樋) (文化庁の登録文化財)
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新大和川が完成した時に旧の大和川への水路を閉じたのがここ築留(つきどめ)で
旧の大和川には農業用の用水路が設けられたそうです。
現在の築留二番樋は明治40年頃にレンガ造りで建造さ
現在も用水路として柏原市や八尾市で使用されていますね。
(築留地区 利水事業の石碑)
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徳川幕府の正式歴史書である「徳川実記」にはこの付替え工事の中心人物である
中甚兵衛は勿論の事ながら堤奉行である万年長十郎でさえ記録が有りません。
普請奉行の大久甚兵衛と伏見主水が将軍綱吉から功労により
時服を頂戴したこと、その後に大久保甚兵衛が昇進して
大坂西町奉行に成ったことしか記録されていないそうです。
中甚兵衛は大和川付け替え工事の現場責任者である大久保甚兵衛と
名前が同じなので「甚助」と改め以後、子供の代から甚兵衛を名乗らず
「九兵衛」と称する事にしたそうです。
中甚兵衛は苗字帯刀を許されたのが記録に残る唯一の業績で
この時期の人物としては珍しい92歳の長寿を全うしたそうです。
300周年を記念して築留地区に銅像が建てられたのが平成16年の事でした。
(大和川本流に合流する石川を 築留地区の堤防から撮影)
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日記が長くなりましたので次回は新大和川の難工事だった
浅香山の辺りからか下流を訪ねて見る事にしました。