鉄ちゃん爺やの 独り言

鉄ちゃん爺やは大阪に住んでますので
画像で隠れた関西の名所も紹介します。

浪花八百八橋 & 大阪城  (続篇)

2012-01-16 19:33:33 | 日記
今夜は大阪弁でやらして貰いま~♪

まずは大阪城の天守閣を見てくれはりまっか。


(大阪城の天守閣)  (本丸の正面から撮影)




(陸軍第四師団司令部)  (現在は閉鎖中)




1931年(昭和6年)に昭和天皇即位記念事業として大阪市の関市長はんが提案。

市民や企業から約150万円の寄付金が集まったらしいでっせ。

今のお金にしたら約700億円だそうですわ、当時は関東大震災で衰退した
東京より大阪の方が元気がおましたんやな。

第四師団司令部と天守閣が合わせて約145万円で建てられたそうですわ。

なんでも第四師団司令部の方が高く付いたとの話でっせ。

陸軍さんに文句を言わせないように立派な建物を献上したちゅう事でんな。


(大阪砲兵工廠の跡)




鉄ちゃん爺やが幼い頃には大阪城の東側には陸軍の砲兵工廠がおましたんや。

大砲や戦車や砲弾などを造ってましたんや、そやから米軍の1トン爆弾の
空襲をなんども受け、終戦の1日前には壊滅的な被害が出たそうですわ。

国鉄の森ノ宮駅では1トン爆弾で多くの方が亡くなったそうでっせ。

そやけんど天守閣と第四師団司令部はビクともせずにカスリ傷で済んだそうですわ。

第四師団司令部は戦後に進駐軍が利用しその後大阪市に返還され大阪府警本部
大阪歴史博物館を経て今は重要文化財として保存されていまんねんで。

砲兵工廠跡は現在はビジネス街(OBP)と大阪城公園に成ってまっけど。


(極楽橋と見事な擬宝珠)  (ぎぼうしと読みまっせ)




天守閣から裏手へ出ると奇麗な橋がお堀に架かってまっせ。

極楽橋(ごくらくばし)と呼びまんねんて、なんでも昔
石山本願寺の御堂さんがおまして阿弥陀さんが祀ってあったとか
それで太閤さんの時代も徳川はんの時代も極楽橋と呼んだそうですわ。


(極楽橋をお堀端から撮影)




こちらは二の丸跡でっけど暫く歩くと青屋門という場所に出てきまんな。


(大阪城の青屋門)




この門は大阪城の鬼門(北東)に当りまんので江戸時代には常に閉ざされていたそうですわ。

青屋門も終戦の1日前の空襲で大破したんでっけど、その廃材を使って
戦後に建て直したそうでっせ。

江戸時代の宝永年間に大和川が堺市の方へ川替えされる前はこの門の外を
大和川の本流が流れていたそうでっせ。

そやから非常口として大和川から船で逃げる事も考えていたんでっしゃろな。

今は城内から100mぐらい先に橋が架かってまっけど。


(新鴫野橋)   (昔は公儀橋でしたんや)




この辺はさっき話しました「砲兵工廠跡」でっさかいに戦前は一般の
人間は通ることも橋を渡ることも出来なかったそうでんな。


(新鴫野橋と平野川)




今は平野川でそんなに川幅はおまへんけど昔は大和川の本流でしたんで
200mぐらいはおましたんでっしゃろな。

江戸時代には河内方面へ出る橋で公儀橋の一つだったそうですわ。

当時は「鴫野橋」と呼んでいたんでっけど、戦後の河川改修で新しく
架け替えたんで「新」を付けたようでんな。

引き返して京橋口の方へ抜ける事にしまひょかな。


(京橋口へ向かう通路から撮影)  (天主閣の裏側からになりま)




最後にJR大阪環状線が森ノ宮駅から京橋駅の区間だけ地上を走ってまんねんで。

昔は城東線と呼んでましたんやけど、砲兵工廠を一般人や外国人に見られないように
わざと高架にせず下を走らした名残りだと言う話でんな。

ほんなら、今夜はこれでお仕舞いにしまっさ、さいなら~♪





コメント (26)
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