我が町より電車で二駅目に富田林市の「寺内町」と呼ばれる処がおますんや。
大阪府で唯一の国の重要伝統的建造物保存地区に選定されてますな。
江戸時代から明治時代まで約100軒ぐらいの町屋やが残ってまんねん。
此処で第7回「じないまち雛めぐり」をやってるちゅうので行ってきましたで。
(第7回 じないまち雛めぐり ポスター) (大阪府富田林市)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
ここ富田林市に在る寺内町は戦国時代の永禄3年に浄土真宗の証秀上人によって
興正寺というお寺が造られ町民がお寺を中心にして宗教自治都市を造ったんですわ。
東西400m 南北300m 周りを土塀と竹林で囲っていたそうでっせ。
(興正寺 別院) (現在は浄土真宗 興正寺派のお寺)
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歴史上で有名な大坂石山本願寺を織田信長が攻めたことはご存知でっしゃろ。
ここ興正寺は同じ一向宗ながら石山御坊側につかず織田信長と和睦したんやそうな。
「寺内之儀 不可有別状」との書状を織田信長から得ていたようですわ。
「じないのぎ べつじょうあるべからず」と読める安堵状でっしゃろな。
一向宗でも全てが織田信長と争った訳じゃおまへんのや。
興正寺には武力の背景もあって織田信長も妥協したほうが得だと考えたんでっしゃろな。
(重要文化財 旧 杉山家 住宅)
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富田林寺内町は江戸時代には50軒もの商家や酒屋が在ってこの杉山家は4軒ある
寺内町の町年寄りを司る名家だったそうな。
江戸時代後期には河内木綿を京都市や滋賀県へ売り捌く権利をもっていたようでんな。
なにせ河内木綿は当時、日本の2割ぐらいを河内の国で生産していたそうでっせ。
幕末には吉田松蔭も24日間滞在したとか、池田屋事件で死亡した熊本の松田重助も
ここで昼間は寺子屋をしながら尊王攘夷の運動をしたそうでっせ。
他にも幕末に登場する有名な人物も滞在していたようでんな。
天誅組の吉村寅之助が富田林寺内町で同士と合流して大和の五条へ向けて出発し
この近郷からも十数名が天誅組の決起に加わったそうですわ。
我が町には幕府の代官所があったんで取締が厳しく、お隣の富田林・寺内町なら
尊王攘夷の志士が隠れて活動するには適していたんでっしゃろかな。
それだけ寺内町で自治が出来ていて幕府も下手に手が出せなかったようでっせ。
(木口家 住宅) (富田林 寺内町)
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(本奥谷家 住宅) (富田林 寺内町)
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ここ富田林寺内町はアメリカ軍の空襲も受けなかったので大阪府下でも
珍しい江戸時代の建造物が残ってまんねんで。
平成9年の重要伝統的建造物保存地区に選定されるまでは、ひっそりとした街で
こんなに観光客が押しかけることは無かったと内の奥さんの話でっけど。
内の奥さんには準地元ちゅう感じで中学校はこの近くに在って通っていたとか。
(内の奥さんです~ じないまち交流センター前にて)
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内の奥さんもこんなに観光客が押しかけてるんでビックリしてまんがな。
昔は夜など物騒で一人で歩けないほど寂しい所だったと言ってまっせ。
前置きが長くなりましたが、本命の「雛飾り」を連続で並べさせてもらいまひょ。
(第7回 じないまち雛めぐり) (大阪府富田林市)
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(京雛飾り) (二つ貼り付けまひょ)
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京都のお雛さまは「お内裏さん」が向かって右側に座ってはりまんねんで。
普通の関東雛と呼ばれるのはお内裏さまが向かって左側でっしゃろ。
関西でも昔に作られたお雛さまは「京雛」が多かったそうでっけど
大正天皇が外国流に向かって左側に立たれたので、お雛さまもそうなったとか。
昔の日本は左が上位だからお内裏さんは向かって右側が伝統的な飾りでっしゃろな。
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こんな処にもお雛さまが飾られておまっせ。
街路灯の中にお雛さまと、お内裏さまが収まってはりますわ。
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(生花店で 花に囲まれた雛飾り)
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(刺繍で出来上がった お雛さま)
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(今年は巳年だから こんなお雛さんまでおますがな)
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それにしても、ヘビにお雛さんとは違和感がおまへんか。
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(地元幼稚園の 園児が作ったお雛飾り)
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(富田林 寺内町にて)
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寺内町の通りは「曲がり」と呼ぶ少しだけ道をずらして遠くから見えないように
こんな工夫も戦国時代の防御のための知恵だったようでんな。
遠くに見える白い塔はPL教団の平和慰霊塔で高さが約100mでしたかな。
(富田林 寺内町の曲がり)
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次回は前後しましたが道明寺天満宮の梅が満開だそうで
それを貼り付けさせて貰いまひょ。
ほな~ これで失礼させてもいらいまっせ さいなら~
大阪府で唯一の国の重要伝統的建造物保存地区に選定されてますな。
江戸時代から明治時代まで約100軒ぐらいの町屋やが残ってまんねん。
此処で第7回「じないまち雛めぐり」をやってるちゅうので行ってきましたで。
(第7回 じないまち雛めぐり ポスター) (大阪府富田林市)
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ここ富田林市に在る寺内町は戦国時代の永禄3年に浄土真宗の証秀上人によって
興正寺というお寺が造られ町民がお寺を中心にして宗教自治都市を造ったんですわ。
東西400m 南北300m 周りを土塀と竹林で囲っていたそうでっせ。
(興正寺 別院) (現在は浄土真宗 興正寺派のお寺)
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歴史上で有名な大坂石山本願寺を織田信長が攻めたことはご存知でっしゃろ。
ここ興正寺は同じ一向宗ながら石山御坊側につかず織田信長と和睦したんやそうな。
「寺内之儀 不可有別状」との書状を織田信長から得ていたようですわ。
「じないのぎ べつじょうあるべからず」と読める安堵状でっしゃろな。
一向宗でも全てが織田信長と争った訳じゃおまへんのや。
興正寺には武力の背景もあって織田信長も妥協したほうが得だと考えたんでっしゃろな。
(重要文化財 旧 杉山家 住宅)
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富田林寺内町は江戸時代には50軒もの商家や酒屋が在ってこの杉山家は4軒ある
寺内町の町年寄りを司る名家だったそうな。
江戸時代後期には河内木綿を京都市や滋賀県へ売り捌く権利をもっていたようでんな。
なにせ河内木綿は当時、日本の2割ぐらいを河内の国で生産していたそうでっせ。
幕末には吉田松蔭も24日間滞在したとか、池田屋事件で死亡した熊本の松田重助も
ここで昼間は寺子屋をしながら尊王攘夷の運動をしたそうでっせ。
他にも幕末に登場する有名な人物も滞在していたようでんな。
天誅組の吉村寅之助が富田林寺内町で同士と合流して大和の五条へ向けて出発し
この近郷からも十数名が天誅組の決起に加わったそうですわ。
我が町には幕府の代官所があったんで取締が厳しく、お隣の富田林・寺内町なら
尊王攘夷の志士が隠れて活動するには適していたんでっしゃろかな。
それだけ寺内町で自治が出来ていて幕府も下手に手が出せなかったようでっせ。
(木口家 住宅) (富田林 寺内町)
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(本奥谷家 住宅) (富田林 寺内町)
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ここ富田林寺内町はアメリカ軍の空襲も受けなかったので大阪府下でも
珍しい江戸時代の建造物が残ってまんねんで。
平成9年の重要伝統的建造物保存地区に選定されるまでは、ひっそりとした街で
こんなに観光客が押しかけることは無かったと内の奥さんの話でっけど。
内の奥さんには準地元ちゅう感じで中学校はこの近くに在って通っていたとか。
(内の奥さんです~ じないまち交流センター前にて)
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内の奥さんもこんなに観光客が押しかけてるんでビックリしてまんがな。
昔は夜など物騒で一人で歩けないほど寂しい所だったと言ってまっせ。
前置きが長くなりましたが、本命の「雛飾り」を連続で並べさせてもらいまひょ。
(第7回 じないまち雛めぐり) (大阪府富田林市)
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(京雛飾り) (二つ貼り付けまひょ)
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京都のお雛さまは「お内裏さん」が向かって右側に座ってはりまんねんで。
普通の関東雛と呼ばれるのはお内裏さまが向かって左側でっしゃろ。
関西でも昔に作られたお雛さまは「京雛」が多かったそうでっけど
大正天皇が外国流に向かって左側に立たれたので、お雛さまもそうなったとか。
昔の日本は左が上位だからお内裏さんは向かって右側が伝統的な飾りでっしゃろな。
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こんな処にもお雛さまが飾られておまっせ。
街路灯の中にお雛さまと、お内裏さまが収まってはりますわ。
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(生花店で 花に囲まれた雛飾り)
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(刺繍で出来上がった お雛さま)
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(今年は巳年だから こんなお雛さんまでおますがな)
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それにしても、ヘビにお雛さんとは違和感がおまへんか。
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(地元幼稚園の 園児が作ったお雛飾り)
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(富田林 寺内町にて)
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寺内町の通りは「曲がり」と呼ぶ少しだけ道をずらして遠くから見えないように
こんな工夫も戦国時代の防御のための知恵だったようでんな。
遠くに見える白い塔はPL教団の平和慰霊塔で高さが約100mでしたかな。
(富田林 寺内町の曲がり)
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次回は前後しましたが道明寺天満宮の梅が満開だそうで
それを貼り付けさせて貰いまひょ。
ほな~ これで失礼させてもいらいまっせ さいなら~