鉄ちゃん爺やの 独り言

鉄ちゃん爺やは大阪に住んでますので
画像で隠れた関西の名所も紹介します。

南宗寺 & 千利休の屋敷跡 堺の旧市内巡り~♪

2015-07-18 19:50:18 | デジカメ散歩
今回は堺市の旧町をご紹介しまひょ。

堺市と言えば何をイメージされまっしゃろか?

中世に「東洋のベニス」と呼ばれた自治都市
又は、千利休の生まれ育った街でっかな。

それとも堺が生んだ明治・大正の歌人与謝野晶子さんかしら。

(阪堺電気鉄道 大阪唯一の路面電車)





この路面電車は昭和32年製造(1957年)のロートル。

58歳とは路面電車だからこそ、今でも走れる骨董品に近いでんな。

もっと古いのも走ってまっけど、冷房装置が付けられないので
夏場には車庫で眠っている、日本一古い現役電車もおますんや。

当時はグリーン色で地味な塗装でしたが今ではキン肉マンの
子供が喜ぶようなラッピング塗装で走ってまんねんで。

現在は一駅だけでも、終点の浜寺公園まで乗っても210円均一。

赤字の為に「あびこ道駅」までで堺の路線を廃線にしようとそんな
計画もおましたんや、そこで助け舟を出したのが堺市でおます。

堺市が存続のために支援して全線どこまで乗っても210円
これは鉄ちゃん爺やだけでなく、乗客には嬉しいことですわ。

支援の金額は知りませんが、存続が決まったのは明るいお話。

話が脱線しましたが「ごりょうまえ駅」で下車しまっさ。

ここから歩いて約1.5kmぐらいの処に、前回紹介した
仁徳天皇陵の拝所に通じる道から駅名が付けられてますんや。

(堺市内 観光名所 案内図)



それじゃや~ 堺市内でも三本の指ぐらいに入る「南宗寺」へ向かいまひょ。

この付近は江戸時代からの寺町でお寺ばかりが並んでまっせ。

(臨済宗 大徳寺派 南宗寺)







無銘ながら徳川家康公の塔が在ると刻まれてまっしゃろ。

詳しくは境内の、徳川家康公のお墓でお話をしまひょ。

まずはこのお寺を創建した室町時代の方の銅像から。

(南宗寺境内 三好長慶公の銅像)



戦国時代に織田信長が上洛する一世代前に近畿地方や
京都市内を勢力下に収めていた有力な武将でんな。

戦国時代に堺の街をめぐる争奪戦で戦死した三好元長と言う
父親の霊を弔うために創建されたのが南宗寺だったんですわ。

(国の重要文化財  甘露門)





現在は横目で見ながら通り過ぎる感じに成ってるのは
昭和20年の空襲で主な堂塔が焼けてしまったからかも?

昔は南宗寺の山門にあたる重要な門だったんでしょうな。



(南宗寺 通用門)



土塀は確かに江戸時代ごろの古さを感じまっしゃろ。

先ずは、仏殿と有名な天井壁画からお見せしまひょ。

このお堂は釈迦如来さんを安置している本堂になるようでんな。

大阪では現在でも禅宗系のお寺は非常に珍しいんでっせ。

やはり~ 浄土真宗や浄土宗のお寺が多いんですわ。

(国の重要文化財 南宗寺 仏殿)







江戸時代の承応元年(1652年)創建された純粋な禅宗の様式で
造られた仏殿だそうで、天井壁画は狩野信政の筆だそうでっせ。

このお寺を再建したのは有名な沢庵和尚だと言われてまんな。

そう言えば京都の大徳寺も合わせて住職をされてたかな?

(八相睨みの龍 天井壁画)



禅宗のお寺へ行くと、この八相睨みの龍がよく描かれてまっしゃろ。

どの方向から眺めても、こちらを睨んでいるように見えますんや。

京都の天龍寺など特別拝観の時しか見れないお寺もおますかな。

堺市が支援するボランティアの方が説明して引率してくれまっせ。

当然ながら無料で、そこそこの歴史や知識を持ってはりました。

(南宗寺 禅堂)



ここは座禅の修行をする道場でっけど、建物は明治4年建立で
南宗寺では比較的新しい建物になりますかな。

鉄ちゃん爺やは無理でっけど朝の7時にここへお参りをしたら
座禅を体験できる文殊菩薩がお祀りされているお堂なんだって。

(坐雲亭の 説明板)





本当は南宗寺に残る江戸時代から一番古い建物だとの説明でした。

でも一度、倒壊して再建されたので重要文化財になれなかったとか。

この坐雲亭の二階に元和9年(1623年)7月に徳川秀忠公が
続いて8月に三代将軍になったばかりの徳川家光公が御成りとの記録が。

内部は拝観できないけど、一階は茶室に成っている感じだね。

大坂夏の陣で豊臣方が徳川方に利用させぬ為に堺の街を全て焼き払い
中世に栄えた堺の街も、この時点で一度は消滅した訳でんな。

その後、徳川幕府により再建された街並みを二階から眺めたのかも?

現在ではビルが建ってしまい、見晴らしは全くダメでっせ。

当時はここから街並みやその向こうに大阪湾まで一望だったとか。

(南宗寺 石庭)









こじんまりとした庭の枯山水で禅宗のお寺によく有る石庭でんな。

古田織部好みの庭だと書かれてますが、蓬莱山から流れ下って
滝を下り川から海を経て実相庵の前庭にたどり着くという工夫が
水は一滴も使わず砂と石で山河を表しているんだそうな。

最後の画像の奥に利休好みの実相庵がおますんやけど
現在は修復作業中で近寄れまへんでしたわ。

それじゃ~ 境内の奥の方へ行きまひょ。 

(千利休の供養塔と 千家一門のお墓)



中央が千利休の供養塔で並んでいる右側が不審庵=表千家のお墓。

左手が今日庵=裏千家のお墓、見づらいですが手前の右側に
官休庵=武者小路千家のお墓が一同に集められてますんや。

毎年2月27日の利休忌には全国各地から一門の人々で賑わうとか。

この利休一門のお墓の隣には千利休の師匠にあたる
武野紹鷗のお墓もおますんや。

(武野紹鷗の お墓)



その奥には当時、千利休と切磋琢磨し茶道の発展に努めた
津田家と半井家一門のお墓がおましたで。

津田家は歴史上にも登場する堺の豪商だったそうな。

(津田家・半井家 一門のお墓)



正面左から津田宗及その右が千利休と並び称される津田宗達
中央が翠嚴和尚の卵塔で右へ半井一門が並んでいるとの説明。

実は撮影はお断りされたんですが、正面の翠嚴和尚の卵塔の前の
花立を取り除くと「十字架」が刻まれてますんや。

そして左側の灯篭に刻まれているのはお地蔵さんのようで実は
マリア様に抱かれた赤ん坊なんだそうですわ。

当然ながらイエスキリストさんに成りますよね。

言われて見ればこの灯篭も十字架に見える感じがしまっかな。

南宗寺境内の一番奥になるんだけど、大胆にも隠れキリシタン。

ここは江戸時代には南宗寺と同じ境内に堺東照宮がおましたんや。

堺の商人が鎖国とキリスト教禁止への反骨の表現かしら?

ボランティアさんの説明が無ければ何の変哲もない江戸時代の
堺の商人のお墓だと通り過ぎる処でしょうな。

(南宗寺境内 三好長慶一族のお墓)





一番背の高いのが三好元長のお墓で、その右側が三好長慶。

江戸時代になってから再建された南宗寺へ移されたのかな?

三好一族は阿波の細川家の執事をしていた家だから、当然ながら
徳川家とは何の関係もないので、考えられるのは大坂夏の陣の後
この南宗寺を再建した沢庵和尚が昔の檀家さんとして移設したのかも。

次は関西系のテレビでも放映された珍説で「徳川家康公のお墓」

(徳川家康公の墓)(昭和42年建立)



これは大阪人の作り上げた伝説でっけど、徳川家康公は大坂夏の陣で
後藤又兵衛の槍で突かれて負傷し、堺市まで逃げてきたが既に死亡。

そこで開山堂の床下に埋葬したと伝えられてますんや。

大坂夏の陣に勝利すると影武者を徳川家康公に仕立て凱旋したとか。

翌年に駿府城内で「鯛の天ぷら」を食べて死亡したと正式に発表。

影武者は同じく大坂夏の陣で戦死したと書かれている小笠原秀政
この方は徳川家康公によく似たお顔だったとの記録がおます。

もしくは摂津の国で吉田村の百姓だったとも噂されてますな。

小説の世界のお話として軽く聞き流して頂戴ね。

(開山堂跡に 徳川家康公の 仮の墓)



このお墓はどう見ても僧侶の墓に思えるし、家康公の本当の墓なら
もっと立派なものが後に造られるはずだとの説が濃厚でっけど。

でも影武者を本当の家康公にして置く為なら、それも一理ありかな。

徳川秀忠公や家光公が、こんなお寺に立て続けで訪れたのはその際に
徳川家康公の遺骨を掘り起こして日光の東照宮に運ばせたとの説が。

宗旨でもない南宗寺にわざわざ京都から出向いてるのは何故かしら?

でも後藤又兵衛は大坂夏の陣の前日に河内の道明寺河原で戦死。

真田幸村に追い迫られた日には既にこの世には居なかったはず。

徳川家康公の新しいお墓は昭和になってから再建されました。

発起人の一人に故松下幸之助さんまでが名を連ねている不思議。

こんな伝説を信じて献金された訳でもないでしょうな。

発起人の総代は元水戸藩で家老職を務めた家柄の方なんだって。

江戸時代から徳川家康公の何らかの伝説があったんでしょうか?

今となっては記録書にも全く痕跡すら残ってまへん。

(南宗寺内 堺東照宮 拝殿の写真)



戦前まではここに堺東照宮が在り昭和20年の空襲で焼失。

鉄ちゃん爺やが前回に訪れた際は石の基礎だけが残ってましたな。

南宗寺と徳川家康公との歴史的な繋がりは皆無でおます。

現在は戦前の写真から東照宮の拝殿と開山堂が並んでいたとの
記録しか残ってませんが、まことに不思議なお話でっしゃろ。

堺東照宮が造られたのは江戸時代も後期で文政年間とのこと。

でも東照宮が造られるには、何かが有るんでしょうな。

(堺東照宮 唐門)



現在では堺東照宮の建物ではこの唐門だけが残っています。

厳めしく唐門には三つ葉葵の紋が正面に見えてまっしゃろ。

唐門の奥に見えるのが昭和になってから出来た徳川家康公のお墓。

ますます~ 徳川家康公との関連が謎のままでお寺を後にしましたんや。

(南宗禅寺 門前にて自撮り)



ここから歩いて10分ぐらいの処に千利休の屋敷跡がおます。

千利休の生家も当時の堺では中程度の大きい商人だったそうでんな。

次はその千利休の屋敷跡を紹介しまひょ。



(千利休の 屋敷跡)











この千利休屋敷跡と道路を挟んでお向かいに堺市がPRも兼ねて
こんな施設を造りましたんや、最近できた建物のようでんな。

(さかい利晶の杜 入口)



千利休の「利」と与謝野晶子の「晶」を合わせて出来た施設。

ここで抹茶と堺の和菓子が1200円ぐらいで味わえるとか。

でも鉄ちゃん爺やには、お似合いじゃないのでパスしまひょ。

千利休と与謝野晶子の資料などが展示されているそうですわ。

無料の模型だけデジカメで撮影して外へ出まひょ。

(明治から戦前までの 堺市の風景)





この辺りは大坂夏の陣の後に徳川幕府により再建された堺の中心街。

紀州街道が南北に通っていて紀州55万石の徳川家は和歌山城から
ここを通過し大坂の八軒家浜(現在の天満橋付近)から船に乗り
京都の伏見から山科を通って東海道を江戸に向かったそうでっせ。

(紀州街道の 石碑)





現在は中央にチンチン電車と呼ばれる阪堺電気軌道の路面電車が
通る堺市内でも有数の広い道路でっけどそれは大正時代以降のこと。

江戸時代には三分の一ぐらいの道幅しかなかったと言われてますな。

その証拠を伝える案内図が次の与謝野晶子の生家碑に見られまっせ。

(与謝野晶子 生家碑)











最後の画像の奥に見える保険会社のビルが写ってまっしゃろ。

あの辺りまで与謝野晶子の生家で和菓子屋さんだったんだって。

(大道筋 道路標)



昔の紀州街道を現在は堺市内では「大道筋」と呼ぶそうでんな。

ここから約2kmぐらい先で大和川を渡ると大阪市内になり
そこからは「住吉街道」と呼ばれて住吉大社の前を通ってますんや。

それでは堺の旧町へ少しだけ足を延ばしてみまひょ。

(堺市 山之口商店街)











与謝野晶子さんの地元だから商店街には与謝野晶子の短歌が
両側のアーケードの下に吊り下げられてまっせ。

堺と言えば最近は料理人用の包丁では8割以上を製造することで有名。

(堺市内 老舗の包丁の製造元)







家庭用ではステンレスの包丁が大半でっけど、料理人が使用する包丁は
現在でも堺の包丁が最高級品だと言われてまんな。

堺と言えば「刃物の街」と関西では昔から有名ではおまっせ。

戦国時代の鉄砲を製造していた職人が平和な時代になった江戸時代に
堺の包丁として全国的に知られるような集団になったんだそうな。

江戸時代の鉄砲鍛冶屋の建物はもう少し大阪寄りに1軒だけ残ってますが
こちらは屋敷の内部が公開されてませんので今回はパスしました。

(堺市 大少路筋=おうしょうじすじ)





鎌倉時代以降はこの東西に走る大小路(おうしょうじ)を
挟んで北側が摂津の国で南側が和泉の国だったんでっせ。

だから堺市の地名もここから考え出された物なんでしょうな。

江戸時代には竹内街道(たけのうちかいどう)の起点も
ここ大小路(おうしようじ)と紀州街道が交差する場所が
起点とされたので最近になって石碑が置かれてますわ。

(竹内街道=たけのうちかいどう 起点の石碑)





平安時代にはこの辺りは小さい漁村でこの交差点から西側は
大阪湾が広がっている寂しい処に過ぎなかったんだって。

処がこの辺りは大阪湾を経由して瀬戸内海から朝鮮半島へ
もしくは沖縄や中国大陸などへの港として注目されましたんや。

この大小路(おうしょうじ)の北側一帯を堺北の荘と呼び
朝廷から鎌倉時代には住吉大社に寄贈されて荘園となったとか。

だからここは住吉大社を通じて南朝方の拠点だったんでっせ。

南側は堺南の荘と呼ばれこちらは北朝の荘園から後に室町幕府の
所領となり中国との遣明船貿易の拠点となりましたんや。

堺の荘園は奈良や京都の寺社の供御人としての資格を所有して
全国で関所の税金なども免除される現在の流通業者だったようでんな。

幕府にも朝廷にも支持者がいて強力な組織が豪商に発展したようでっせ。

そんな遣明船貿易から堺市は発展し太閤秀吉が大坂城と市街地を
造るまでは、こちら堺の街が大坂で一番賑わったんだって。

南北朝の戦乱もそれから足利義満の大内氏との争いや三好一族の
京都や堺市をめぐる戦乱はこの堺の経済力の獲得にあったんでしょうな。

堺の街を把握した支配者が天下人と呼ばれる地位に座ったんだって。

中世先進の街とか、東洋のベニスと呼ばれる繁栄だったようでっせ。

そんな噂が宣教師を通じてヨーロッパにも伝わったんだって。

最後は織田信長や豊臣秀吉により堺の自治は崩壊しますがね。

大坂夏の陣で大半が焼けてしまった堺の街を復興させる必要を
徳川秀忠公や徳川家光公も大事な事業だと考えていたようでんな。

当時はまだ西洋との貿易は徳川幕府にも必要だったはず。

でも結局は鎖国により堺の復興は成ったが昔の栄光を取り戻せずに
昭和20年の4度に渡る空襲で壊滅的な被害で終了と成りましたんや。

(大少路=おうしょうじ & 大道筋の交差点)





堺市の援助で一昨年に購入された阪堺電気軌道の新型路面電車。

鉄ちゃん爺やが昨年に広島市内で見かけた路面電車と同じ型で
おそらく日本の同じメーカーで製造された車両だ思いまんな。

鉄ちゃん爺やが幼少の頃は辺り一面が焼野原でしたんで
それを考えれば近代的な街に変わりつつあるのかもしれまへん。

でも~ 世界的なトップ企業は堺旧市内には存在しませんので
なんとなく地方都市的な印象が強いのが残念でっかな。。

参考ながら中世の堺というイメージは全く感じられませんので
観光で訪れる際には期待外れに終わる可能性も強く念のため。



それじゃ~ 今日はこれでお仕舞にしまひょ。

ほんなら~ さいなら~♪




































コメント (10)
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