大阪城天守閣の再建を計画したのは大阪市長の関一さんでっせ。
1928年(昭和3年)昭和天皇即位の記念事業の一つでしたんや。
1929年(昭和4年)から大阪市民の募金を求めたところ150万円の
基金が集まり、大阪市民の大阪城天守閣への憧れの大きさを感じまぁ。
これは現在の貨幣価値に直したら約600億円とも言われてまんねんで?
150万円の内で25万円は住友財閥の総師である住友吉左衛門友成氏が
個人で寄贈したとの記録が残ってまっけど。
(大阪城の天守閣) (登録文化財に指定)
明治から昭和の時代まで大阪城の本丸一帯は陸軍の管理する地域で
一般の市民は許可なく立ち入ることが出来なかったそうですわ。
そんな訳で、大阪城の天守閣と同時に第4師団庁舎を同時に建設する
条件が認められ、やっと工事が始まったとか言われてまんねん。
1931年(昭和6年)11月7日に五層8階の鉄筋コンクリート製で
大阪城の天守閣が、第四師団庁舎も同時に竣工したそうですわ。
大阪城天守閣に47万円 第四師団庁舎に80万円 公園整備に23万円
天守閣の建築費用より第四師団庁舎の方が随分と高い金額でっしゃろ。
当時の陸軍省を納得させるにはこんな努力が必要だったんだね。
天守閣は大林組が、第四師団庁舎の方は清水組が担当したようでんな。
(旧 第四師団庁舎)
重厚な建物で米軍の空襲に際し1トン爆弾にも耐えたんだとか。
数年前からミライザ大阪の名前で内部が公開されて、喫茶や物販などの
施設になったと聞いてまんねんけど、まだ訪れる機会がおまへんのや。
鉄ちゃん爺やが学生時代には大阪府警本部が使用してましたかな。
大阪城天守閣は入場したり写真を撮る人が多いですが、こちらは
何の建物だったのかも知らない観光客が多いように思いまんねん。
6年前の撮影だったはずで、建物には立ち入りが禁止で閉鎖中でした。
(大阪城天守閣を背景に撮影)
1931年(昭和6年)に完成してから大阪城天守閣は
「天守閣郷土歴史館」と呼ばれて市民にも公開されましたんや。
でも~ 鉄ちゃん爺やが幼い頃にはカメラ撮影が禁止に成り
陸軍省の指示で防諜の為に8階の展望台は見学が禁止に。
1942年(昭和17年)からは天守閣には防空部隊が入り
大阪市民の入場すら出来なくなったと記録されてますかな。
戦後は進駐軍に占拠され1948年(昭和23年)になって
やっと返還され、大阪市に移管されたと聞いてますんや。
昭和の時代に日本全国で天守閣の復元がブームになったようですが
大阪城の天守閣がそのモデルになった第一号だとされてますかな。
(大阪城天守閣に 桜の風景)
大阪城の天守閣は平成の大修理で初層から四層までは白漆喰で
江戸時代の大坂城を、五層目だけは黒漆に金箔で覆った
太閤秀吉時代の大坂城を再現しているんだそうです。
鉄ちゃん爺やには、どちらかに統一して欲しかった思いが。
この大阪城天守閣も米軍の1トン爆弾の被弾を受けたけど
天守台の一部が破産しただけで健在だったようですわ。
1945年(昭和20年)8月14日の昼間にお城の東側
陸軍造兵工廠を米軍のB29が集中的に1トン爆弾で攻撃し
終戦の1日前だったのに国鉄の京橋駅が被弾して
多くの大阪市民が死傷した悲劇がおましたんでっせ。
既にポッタム宣言を日本国は受理したのに米軍はこの日に
B29を1000機も繰り出して最後の大空襲をしたんだとか。
東京大空襲や原爆投下を命令したのも当時のLe司令官でした。
その米軍司令官に日本国から勲一等旭日大授賞の勲章を授与だって
時の総理大臣は安倍前総理の大叔父である佐藤栄作さんでしたな。
勲章を返還せよとの声はマスコミも左派系の政党も唱えませんね。
鉄ちゃん爺やが不満に感じる戦後史の1ページですけど。
(大阪城の 乾櫓) (重要文化財に指定)
(大阪城の千貫櫓) (重要文化財に指定)
1620年(元和6年)江戸幕府により再建された大阪城内では
現存する数少ない櫓で、この二つが一番古い建物に成りまぁ。
(大阪城の 大手門) (重要文化財に指定)
(大阪城の 多聞櫓) (重要文化時に指定)
この二つは1628年(寛永5年)に再建されたそうですが
幕末の嘉永元年に大修理がされているとの記録がおます。
(大阪城 本丸広場の タイムカプセル)
1970年(昭和45年)の大阪万博に際して作られたそうで
5000年後に開封するとのことですが、その頃には
大阪城が今のように名所として残っているのかしら?
西暦6970年でっから人間が生存しているかどうかも疑問。
(お堀端から 大阪府の公共建物群を望む)
画像の中央右寄りが大阪府庁の本庁舎で47都道府県の庁舎では
一番古いそうで1926年(大正15年)の完成だそうですわ。
その左側は大阪府警本部で一番奥の高い建物はNHK大阪放送局と
大阪歴史博物館の建物が並んでいるんでっせ。
(現在の 大阪府警本部庁舎)
東京の警視庁の本庁舎を真似たよな建物でっしゃろ。
鉄ちゃん爺やが若い頃はこの辺りは馬場町(ばんばちょう)と
呼びましたが現在は大阪市中央区大手前と変わったようですわ。
ちなみに同じ馬場町であった大阪城一帯は大阪市中央区大阪城1-1。
(西町奉行所跡の石碑)
大阪城からは西へ約1kmほど離れてまっけど江戸時代の中期以降
西町奉行所があり、東町奉行所の方は大坂城の京橋口にあったとか。
「お奉行の 名さえ覚えず としくれぬ 小西来山」
江戸時代の大坂は商人の街で大坂城を守る武士は数百人ぐらい。
大坂城代は幕府から派遣された譜代大名で町奉行も幕府の旗本クラス
しょっちゅう入れ替わるし名前を知らなくても困らないという俳句。
不謹慎だとのお叱りを受けたとの話は有ったとか無かったとか。
大坂市内では当時の人口が約40万人で幕府の役人は約200人前後
これで治安が維持できたという事は大坂が平和な町だった証拠。
蛇足ながら明治維新後に大阪府庁が最初に出来たのが、ここ
西町奉行跡だったそうで、現在はマイドーム大阪の施設。
(大阪城の 桜門を 城内側から撮影)(重要文化財に指定)
大阪城への正門に成りまっけど明治時代に陸軍第四師団が修復。
最後に大阪城の面白いお話を一つだけ書き込んで置きまひょ。
大阪城の土地は登記上で現在も陸軍省のまま、大阪市が国から土地を
借りている形なんだって、賃料を払っているとは聞きまへんけど。
大阪城の天守閣は当時は陸軍省から許可されなかったのか現在も
建物の登記がされてないという不思議が平成になって判明したんだとか。
大阪の地下鉄のお話は次回に回すことにしました。
少しPCのご機嫌が悪いようで、ご免なさいね。
ほんなら! これで、さいなら~♪
1928年(昭和3年)昭和天皇即位の記念事業の一つでしたんや。
1929年(昭和4年)から大阪市民の募金を求めたところ150万円の
基金が集まり、大阪市民の大阪城天守閣への憧れの大きさを感じまぁ。
これは現在の貨幣価値に直したら約600億円とも言われてまんねんで?
150万円の内で25万円は住友財閥の総師である住友吉左衛門友成氏が
個人で寄贈したとの記録が残ってまっけど。
(大阪城の天守閣) (登録文化財に指定)
明治から昭和の時代まで大阪城の本丸一帯は陸軍の管理する地域で
一般の市民は許可なく立ち入ることが出来なかったそうですわ。
そんな訳で、大阪城の天守閣と同時に第4師団庁舎を同時に建設する
条件が認められ、やっと工事が始まったとか言われてまんねん。
1931年(昭和6年)11月7日に五層8階の鉄筋コンクリート製で
大阪城の天守閣が、第四師団庁舎も同時に竣工したそうですわ。
大阪城天守閣に47万円 第四師団庁舎に80万円 公園整備に23万円
天守閣の建築費用より第四師団庁舎の方が随分と高い金額でっしゃろ。
当時の陸軍省を納得させるにはこんな努力が必要だったんだね。
天守閣は大林組が、第四師団庁舎の方は清水組が担当したようでんな。
(旧 第四師団庁舎)
重厚な建物で米軍の空襲に際し1トン爆弾にも耐えたんだとか。
数年前からミライザ大阪の名前で内部が公開されて、喫茶や物販などの
施設になったと聞いてまんねんけど、まだ訪れる機会がおまへんのや。
鉄ちゃん爺やが学生時代には大阪府警本部が使用してましたかな。
大阪城天守閣は入場したり写真を撮る人が多いですが、こちらは
何の建物だったのかも知らない観光客が多いように思いまんねん。
6年前の撮影だったはずで、建物には立ち入りが禁止で閉鎖中でした。
(大阪城天守閣を背景に撮影)
1931年(昭和6年)に完成してから大阪城天守閣は
「天守閣郷土歴史館」と呼ばれて市民にも公開されましたんや。
でも~ 鉄ちゃん爺やが幼い頃にはカメラ撮影が禁止に成り
陸軍省の指示で防諜の為に8階の展望台は見学が禁止に。
1942年(昭和17年)からは天守閣には防空部隊が入り
大阪市民の入場すら出来なくなったと記録されてますかな。
戦後は進駐軍に占拠され1948年(昭和23年)になって
やっと返還され、大阪市に移管されたと聞いてますんや。
昭和の時代に日本全国で天守閣の復元がブームになったようですが
大阪城の天守閣がそのモデルになった第一号だとされてますかな。
(大阪城天守閣に 桜の風景)
大阪城の天守閣は平成の大修理で初層から四層までは白漆喰で
江戸時代の大坂城を、五層目だけは黒漆に金箔で覆った
太閤秀吉時代の大坂城を再現しているんだそうです。
鉄ちゃん爺やには、どちらかに統一して欲しかった思いが。
この大阪城天守閣も米軍の1トン爆弾の被弾を受けたけど
天守台の一部が破産しただけで健在だったようですわ。
1945年(昭和20年)8月14日の昼間にお城の東側
陸軍造兵工廠を米軍のB29が集中的に1トン爆弾で攻撃し
終戦の1日前だったのに国鉄の京橋駅が被弾して
多くの大阪市民が死傷した悲劇がおましたんでっせ。
既にポッタム宣言を日本国は受理したのに米軍はこの日に
B29を1000機も繰り出して最後の大空襲をしたんだとか。
東京大空襲や原爆投下を命令したのも当時のLe司令官でした。
その米軍司令官に日本国から勲一等旭日大授賞の勲章を授与だって
時の総理大臣は安倍前総理の大叔父である佐藤栄作さんでしたな。
勲章を返還せよとの声はマスコミも左派系の政党も唱えませんね。
鉄ちゃん爺やが不満に感じる戦後史の1ページですけど。
(大阪城の 乾櫓) (重要文化財に指定)
(大阪城の千貫櫓) (重要文化財に指定)
1620年(元和6年)江戸幕府により再建された大阪城内では
現存する数少ない櫓で、この二つが一番古い建物に成りまぁ。
(大阪城の 大手門) (重要文化財に指定)
(大阪城の 多聞櫓) (重要文化時に指定)
この二つは1628年(寛永5年)に再建されたそうですが
幕末の嘉永元年に大修理がされているとの記録がおます。
(大阪城 本丸広場の タイムカプセル)
1970年(昭和45年)の大阪万博に際して作られたそうで
5000年後に開封するとのことですが、その頃には
大阪城が今のように名所として残っているのかしら?
西暦6970年でっから人間が生存しているかどうかも疑問。
(お堀端から 大阪府の公共建物群を望む)
画像の中央右寄りが大阪府庁の本庁舎で47都道府県の庁舎では
一番古いそうで1926年(大正15年)の完成だそうですわ。
その左側は大阪府警本部で一番奥の高い建物はNHK大阪放送局と
大阪歴史博物館の建物が並んでいるんでっせ。
(現在の 大阪府警本部庁舎)
東京の警視庁の本庁舎を真似たよな建物でっしゃろ。
鉄ちゃん爺やが若い頃はこの辺りは馬場町(ばんばちょう)と
呼びましたが現在は大阪市中央区大手前と変わったようですわ。
ちなみに同じ馬場町であった大阪城一帯は大阪市中央区大阪城1-1。
(西町奉行所跡の石碑)
大阪城からは西へ約1kmほど離れてまっけど江戸時代の中期以降
西町奉行所があり、東町奉行所の方は大坂城の京橋口にあったとか。
「お奉行の 名さえ覚えず としくれぬ 小西来山」
江戸時代の大坂は商人の街で大坂城を守る武士は数百人ぐらい。
大坂城代は幕府から派遣された譜代大名で町奉行も幕府の旗本クラス
しょっちゅう入れ替わるし名前を知らなくても困らないという俳句。
不謹慎だとのお叱りを受けたとの話は有ったとか無かったとか。
大坂市内では当時の人口が約40万人で幕府の役人は約200人前後
これで治安が維持できたという事は大坂が平和な町だった証拠。
蛇足ながら明治維新後に大阪府庁が最初に出来たのが、ここ
西町奉行跡だったそうで、現在はマイドーム大阪の施設。
(大阪城の 桜門を 城内側から撮影)(重要文化財に指定)
大阪城への正門に成りまっけど明治時代に陸軍第四師団が修復。
最後に大阪城の面白いお話を一つだけ書き込んで置きまひょ。
大阪城の土地は登記上で現在も陸軍省のまま、大阪市が国から土地を
借りている形なんだって、賃料を払っているとは聞きまへんけど。
大阪城の天守閣は当時は陸軍省から許可されなかったのか現在も
建物の登記がされてないという不思議が平成になって判明したんだとか。
大阪の地下鉄のお話は次回に回すことにしました。
少しPCのご機嫌が悪いようで、ご免なさいね。
ほんなら! これで、さいなら~♪