大阪の船場・本町界隈を歩いて来ましたんや。
鉄ちゃん爺やが1960年代~1970年代まで
色んな体験をした、懐かしい街なんですわ。
(船場センタービル 3号館附近)
外壁が改装されて少しだけイメージが変わった感じ。
数年前に訪れた際には、昔のままの外壁だったはず。
取り壊しとの噂もあったはず、補修に変更したのかしら?
(船場センタービル 旧の外壁)
船場センタービルの2号館に鉄ちゃん爺やが室長をしてた
コンピューター室がおましたんや。
大阪万博の直前に出来たのがこの船場センタービルでおます。
当時としては珍しい、地下2階・地上3階の問屋街や飲食店が
1号館~10号館まで東西に約1kmぐらい繋がってますんや。
その屋上を阪神高速道路と中央大通りが通ってまんねんで。
立ち退き問題で揉めたのを、こんな企画で解決したとの話。
現在も大阪市開発公社が大半を、そして元からの商店などが
ここの1階や地下に移転したケースも存在しているようだね。
2階~3階はテナント賃貸だけど、空き室が多いとの噂でんな。
(TEIJINビル)
社名のロゴが当時は帝人でしたが、現在はTEIJINでんな。
正面玄関の銘板は、当時の帝人ビルディングのままですわ。
完成した頃の社長さんは、あの大屋晋三さんでしたね。
奥さんの大屋政子さんの方が、晩年は有名だったかも。
(帝人ビルディング 正面玄関)
ここの1階には多目的ホールのテイジンホールがおますんや。
鉄ちゃん爺やが船場センタービルのコンピューター室から
兼務しているオフイスへは帝人さんの地下連絡通路を利用。
このビルが完成したのが昭和49年で第一次オイルショックの
少し後でしたが、船場がまだ元気な時代でもおましたんや。
実はこのTEIJINビルをJR九州さんに売却なんだって。
おそらく取り壊して高層マンションにでもされる予定かな?
敷地は確か4000㎡ぐらいの正方形だったはず。
(TEIJINビルを 南側から撮影)
ここにはテイジン(旧 帝人)の本社と子会社が入居してまぁ。
2017年5月に中之島へ引っ越すとのHPでは開示。
登記上でテイジンさんは、現在もここが本店なんでっせ。
船場から又もや有名な繊維関係の会社が一つ無くなりまんな。
(TEIJINビル 1階側面)
ここから約70~80mでもう一つの鉄ちゃん爺やが
管理監督する倉庫と事務所がおましたんや。
この帝人ビル周辺の風景は、懐かしく昔のままですわ。
でも昔の事務所の界隈はすっかり変わってしまいました。
飲食店などが無差別に並んでいてイメージダウンですわ。
デジカメで撮るような雰囲気になりまへんでしたわ。
(本町橋の 橋名板)
(本町橋の上から 東北に向けて撮影)
1913年(大正2年)完成の大阪市内では現役最古参の橋で
この「本町橋」と書かれた橋名板は当時のままなんだって。
この橋の下を流れる川は東横堀川で豊臣秀吉が大坂城を守る
外濠として掘らせた運河だと記録には残ってますんや。
(本町橋から 下流を撮影)
(阪神高速道路の 橋脚)
この橋脚が私の管理していた倉庫の南側の柱を削りましたんや。
現在は倉庫も取り壊されてオフィイスビルになってまっけど。
その際に約2mぐらい川岸から離してビルを建設したはず。
(本町橋の西側 喫茶店 ゼー六)
ここのアイスクリームはゼラチンを使用した船場でも有名なお店。
店舗は鉄ちゃん爺やが勤務してた当時とまったく変わりが無し。
お店のご主人は、流石に40年も経過だから、お孫さんかな?
(大阪産業創造館)
鉄ちゃん爺やが居た頃にはここは東区役所でしたな。
現在は南区と東区が統合されて中央区に成りましたんや。
中小企業や大阪で創業する会社を支援する機関のようで
大阪市の公益財団法人の一つのようですわ。
それでは本町通りを西へ向かいまっせ。
(本町通の 表示板)
江戸時代にはこの本町通りを挟んで船場は北町と南町に別れ
大店の旦那衆が地方自治を任されていたんだって。
江戸時代の大坂・船場は「武士が少なく」町人の街でしたんや。
だから橋の補修や道路や街の整備は町人負担になってました。。
だから公儀橋は「高麗橋」の他は2~3つ、しかおまへんで。
(本町通の 自転車専用エリア)
大阪市内の幹線道路で唯一の自転車専用通路なんだって。
本町通の両側に設けられたように聞いてまぁ。
試験的に実施中で、今後はもっと増やしていきたいとの事。
次の大きな南北の通りを「堺筋」と言いまんねんで。
大阪市内では南北を「筋」そして東西を「通り」と呼びまぁ。
(本町1丁目 交差点)
鉄ちゃん爺やが居た頃は「本町2丁目」と言ってましたで。
御堂筋が出来る昭和初期までは、大阪一のメイン道路でした。
画像の中央は補修されたように見えますが、昔は早稲田屋さん
紳士物の洋装店だったかな、現在は和菓子屋さんのようだね。
(本町1丁目交差点から 北方向を撮影)
中央の白いビルは1951年(昭和26年)に完成したという
トヤマビルの旧館で創業者が富山県人だった由来なんだとか。
命名者は伊藤忠社長の伊藤忠兵衛(2代目)さんらしいね。
(トヤマビル ズームイン)
現在も3代目の方が(株)トヤマビルとして管理しているんだって。
古いビルが取り壊されていくのを惜しんで、今後も出来るだけ
昔のままの姿と内装で、維持していきたいとHPでのコメント。
このビルには鉄ちゃん爺やは、富山漁網さんや業界団体の
紙運会などが有ったので良く出入りしたもんですわ。
外壁は補修されてるけど、見た感じは昔のままでんな。
(元の 本町第一ビル?)
1階が第一勧銀さんの店舗で、2階に鉄ちゃん爺やが通った
歯医者さんがおましたが、取り壊せれてしまいましたな。
新しい高層ビルを建設中で、本町1丁目交差点のイメージが
すっかり変わってしまいそうですわ。
数年前には元の本町第一ビルがまだ残ってましたんやけど。
この本町ビルは1958年(昭和33年)完成だったかな?
(完成予定の 新本町ビル)
この辺りで一番古いビルを発見しましたで。
食品の卸問屋さんだった「明治屋」さんのビルでっせ。
(旧 明治屋南本町ビル)
(新しく 風蘭ビルの銘板)
一寸だけ無断でっけどエレベーターホールまで失礼!
昔と変わらない懐かしいレトロな内装で残ってまぁ。
(旧 明治屋南本町ビル 1階部分)
確か完成は1924年(大正13年)だったはず。
全体としては昔の姿を残していると思いまんねんで。
それでは御堂筋の方へ足を延ばしまひょ。
(元は 五味産業ビル)
ここも鉄ちゃん爺やが出入りしたビルでしたな。
名古屋の近藤紡績や豊島に対して大阪の丸紅が対抗した
先物業者で、五味紡績を傘下に持っていたんだったかな。
商品先物市場で派手な相場を演じたのが売りの近藤紡
買いが丸紅や伊藤忠で相場が大きく上下しましたんや。
もはや、そんな仕手戦も昔話として忘れられたようでんな。
(大阪の 丼池商店街=どぶいけしょうてんがい)
大阪では繊維関係の問屋さんの街として有名だったけど
寂れてしまって、昔の面影は見られないのが残念ですわ。
大阪から西の繊維関係の小売店はここへ仕入れにやってきて
商品を注文したり、持ち帰ったりして繁盛してたんでっせ。
(心斎橋筋商店街)
心斎橋筋商店街もここまで来たら繊維関係の店が大半で、戎橋や
大丸周辺の心斎橋筋商店街とは少しイメージが異なりますかな。
ここを通過したら、大阪市内のメイン道路になる御堂筋でっせ。
(御堂筋に 名残の銀杏並木)
(散り果てた 銀杏の葉っぱ)
(本町3丁目 交差点を通過)
(旧 イトマン跡の外資系ホテル)
ここには世間を騒がせた中堅商社のイトマンがおましたけど
現在は外資系の大きなホテルが建ってますわ。
ここも当時は本町4丁目と言いましたが、現在は本町3丁目。
それでは淀屋橋の方まで、イルミネーションの点灯を見ながら
ゆっくりと歩くことにしまひょ。
(光のルネサンス2016 スポンサーの幟)
今年で14年目を迎える光のルネサンス2016でっけど
スポンサーの減少から、新しい試みがあまり見られまへんな。
そろそろ大阪の市民に飽きられてきたのかも知れまへんで。
(黄昏の 御堂筋)
イルミネーションが点灯されたようでっせ。
でも~ 周囲がまだ明るいので画像では今一でっかな。
(大阪ガス 本社ビル)
南側が空き地になったので全体が写しやすくなりましたで。
この大阪ガスさんの本社ビルも古くて貴重な建物でっかな。
1933年(昭和8年)完成のユニークなビルでっしゃろ。
この空き地には鉄ちゃん爺やが勤務した会社の親会社がおました。
(御堂筋の 古いビル群)
御堂筋の両側はビルの高さ制限が有りましたんで、昔は
ビルの高さが並んで、見事な風景が見られましたんや。
でも~ 現在は高さ制限が緩和されて、逆にビルの高さが
バラバラで鉄ちゃん爺やには、昔の方が懐かしいでっけど。
(最近の 御堂筋のビル群)
(淀屋橋 & 大阪市役所)
中之島地区のイルミネーション点灯は17時の予定だとか。
反対側は大阪の肥後橋方面の画像でっせ。
(淀屋橋から 肥後橋方面を撮影)
中央の高いビルが3つ並んでまっしゃろ、その一番奥
先程のテイジンさんが2017年に引っ越されるビル。
元は大阪の朝日新聞社が在った処に建設中のビルでんな。
それでは、光のルネサンス2016のイルミネーションを
貼り付けますので、ご覧になってくださいね。
(光のルネサンス2016 イルミネーション)
(大阪市役所 正面玄関のイルミ)
(日本銀行 大阪支店のライトアップ)
やはりプロジェクションマッピングが一番の人気かな。
登録文化財の中之島公会堂に幻想的な風景が醸し出されますので。
(中之島中央公会堂)
(中之島 遊歩道のイルミ)
最後はもう一度だけ、御堂筋のイルミに戻りまひょ。
一部は昨年の画像も含んでますのでご容赦のほど。
(御堂筋の イルミ)
それじゃ今回はこれでお仕舞にしまひょ。
次回は天王寺七坂をデシカメで紹介させてもらいまっさ。
ほな~ これで、さいなら~🎵
鉄ちゃん爺やが1960年代~1970年代まで
色んな体験をした、懐かしい街なんですわ。
(船場センタービル 3号館附近)
外壁が改装されて少しだけイメージが変わった感じ。
数年前に訪れた際には、昔のままの外壁だったはず。
取り壊しとの噂もあったはず、補修に変更したのかしら?
(船場センタービル 旧の外壁)
船場センタービルの2号館に鉄ちゃん爺やが室長をしてた
コンピューター室がおましたんや。
大阪万博の直前に出来たのがこの船場センタービルでおます。
当時としては珍しい、地下2階・地上3階の問屋街や飲食店が
1号館~10号館まで東西に約1kmぐらい繋がってますんや。
その屋上を阪神高速道路と中央大通りが通ってまんねんで。
立ち退き問題で揉めたのを、こんな企画で解決したとの話。
現在も大阪市開発公社が大半を、そして元からの商店などが
ここの1階や地下に移転したケースも存在しているようだね。
2階~3階はテナント賃貸だけど、空き室が多いとの噂でんな。
(TEIJINビル)
社名のロゴが当時は帝人でしたが、現在はTEIJINでんな。
正面玄関の銘板は、当時の帝人ビルディングのままですわ。
完成した頃の社長さんは、あの大屋晋三さんでしたね。
奥さんの大屋政子さんの方が、晩年は有名だったかも。
(帝人ビルディング 正面玄関)
ここの1階には多目的ホールのテイジンホールがおますんや。
鉄ちゃん爺やが船場センタービルのコンピューター室から
兼務しているオフイスへは帝人さんの地下連絡通路を利用。
このビルが完成したのが昭和49年で第一次オイルショックの
少し後でしたが、船場がまだ元気な時代でもおましたんや。
実はこのTEIJINビルをJR九州さんに売却なんだって。
おそらく取り壊して高層マンションにでもされる予定かな?
敷地は確か4000㎡ぐらいの正方形だったはず。
(TEIJINビルを 南側から撮影)
ここにはテイジン(旧 帝人)の本社と子会社が入居してまぁ。
2017年5月に中之島へ引っ越すとのHPでは開示。
登記上でテイジンさんは、現在もここが本店なんでっせ。
船場から又もや有名な繊維関係の会社が一つ無くなりまんな。
(TEIJINビル 1階側面)
ここから約70~80mでもう一つの鉄ちゃん爺やが
管理監督する倉庫と事務所がおましたんや。
この帝人ビル周辺の風景は、懐かしく昔のままですわ。
でも昔の事務所の界隈はすっかり変わってしまいました。
飲食店などが無差別に並んでいてイメージダウンですわ。
デジカメで撮るような雰囲気になりまへんでしたわ。
(本町橋の 橋名板)
(本町橋の上から 東北に向けて撮影)
1913年(大正2年)完成の大阪市内では現役最古参の橋で
この「本町橋」と書かれた橋名板は当時のままなんだって。
この橋の下を流れる川は東横堀川で豊臣秀吉が大坂城を守る
外濠として掘らせた運河だと記録には残ってますんや。
(本町橋から 下流を撮影)
(阪神高速道路の 橋脚)
この橋脚が私の管理していた倉庫の南側の柱を削りましたんや。
現在は倉庫も取り壊されてオフィイスビルになってまっけど。
その際に約2mぐらい川岸から離してビルを建設したはず。
(本町橋の西側 喫茶店 ゼー六)
ここのアイスクリームはゼラチンを使用した船場でも有名なお店。
店舗は鉄ちゃん爺やが勤務してた当時とまったく変わりが無し。
お店のご主人は、流石に40年も経過だから、お孫さんかな?
(大阪産業創造館)
鉄ちゃん爺やが居た頃にはここは東区役所でしたな。
現在は南区と東区が統合されて中央区に成りましたんや。
中小企業や大阪で創業する会社を支援する機関のようで
大阪市の公益財団法人の一つのようですわ。
それでは本町通りを西へ向かいまっせ。
(本町通の 表示板)
江戸時代にはこの本町通りを挟んで船場は北町と南町に別れ
大店の旦那衆が地方自治を任されていたんだって。
江戸時代の大坂・船場は「武士が少なく」町人の街でしたんや。
だから橋の補修や道路や街の整備は町人負担になってました。。
だから公儀橋は「高麗橋」の他は2~3つ、しかおまへんで。
(本町通の 自転車専用エリア)
大阪市内の幹線道路で唯一の自転車専用通路なんだって。
本町通の両側に設けられたように聞いてまぁ。
試験的に実施中で、今後はもっと増やしていきたいとの事。
次の大きな南北の通りを「堺筋」と言いまんねんで。
大阪市内では南北を「筋」そして東西を「通り」と呼びまぁ。
(本町1丁目 交差点)
鉄ちゃん爺やが居た頃は「本町2丁目」と言ってましたで。
御堂筋が出来る昭和初期までは、大阪一のメイン道路でした。
画像の中央は補修されたように見えますが、昔は早稲田屋さん
紳士物の洋装店だったかな、現在は和菓子屋さんのようだね。
(本町1丁目交差点から 北方向を撮影)
中央の白いビルは1951年(昭和26年)に完成したという
トヤマビルの旧館で創業者が富山県人だった由来なんだとか。
命名者は伊藤忠社長の伊藤忠兵衛(2代目)さんらしいね。
(トヤマビル ズームイン)
現在も3代目の方が(株)トヤマビルとして管理しているんだって。
古いビルが取り壊されていくのを惜しんで、今後も出来るだけ
昔のままの姿と内装で、維持していきたいとHPでのコメント。
このビルには鉄ちゃん爺やは、富山漁網さんや業界団体の
紙運会などが有ったので良く出入りしたもんですわ。
外壁は補修されてるけど、見た感じは昔のままでんな。
(元の 本町第一ビル?)
1階が第一勧銀さんの店舗で、2階に鉄ちゃん爺やが通った
歯医者さんがおましたが、取り壊せれてしまいましたな。
新しい高層ビルを建設中で、本町1丁目交差点のイメージが
すっかり変わってしまいそうですわ。
数年前には元の本町第一ビルがまだ残ってましたんやけど。
この本町ビルは1958年(昭和33年)完成だったかな?
(完成予定の 新本町ビル)
この辺りで一番古いビルを発見しましたで。
食品の卸問屋さんだった「明治屋」さんのビルでっせ。
(旧 明治屋南本町ビル)
(新しく 風蘭ビルの銘板)
一寸だけ無断でっけどエレベーターホールまで失礼!
昔と変わらない懐かしいレトロな内装で残ってまぁ。
(旧 明治屋南本町ビル 1階部分)
確か完成は1924年(大正13年)だったはず。
全体としては昔の姿を残していると思いまんねんで。
それでは御堂筋の方へ足を延ばしまひょ。
(元は 五味産業ビル)
ここも鉄ちゃん爺やが出入りしたビルでしたな。
名古屋の近藤紡績や豊島に対して大阪の丸紅が対抗した
先物業者で、五味紡績を傘下に持っていたんだったかな。
商品先物市場で派手な相場を演じたのが売りの近藤紡
買いが丸紅や伊藤忠で相場が大きく上下しましたんや。
もはや、そんな仕手戦も昔話として忘れられたようでんな。
(大阪の 丼池商店街=どぶいけしょうてんがい)
大阪では繊維関係の問屋さんの街として有名だったけど
寂れてしまって、昔の面影は見られないのが残念ですわ。
大阪から西の繊維関係の小売店はここへ仕入れにやってきて
商品を注文したり、持ち帰ったりして繁盛してたんでっせ。
(心斎橋筋商店街)
心斎橋筋商店街もここまで来たら繊維関係の店が大半で、戎橋や
大丸周辺の心斎橋筋商店街とは少しイメージが異なりますかな。
ここを通過したら、大阪市内のメイン道路になる御堂筋でっせ。
(御堂筋に 名残の銀杏並木)
(散り果てた 銀杏の葉っぱ)
(本町3丁目 交差点を通過)
(旧 イトマン跡の外資系ホテル)
ここには世間を騒がせた中堅商社のイトマンがおましたけど
現在は外資系の大きなホテルが建ってますわ。
ここも当時は本町4丁目と言いましたが、現在は本町3丁目。
それでは淀屋橋の方まで、イルミネーションの点灯を見ながら
ゆっくりと歩くことにしまひょ。
(光のルネサンス2016 スポンサーの幟)
今年で14年目を迎える光のルネサンス2016でっけど
スポンサーの減少から、新しい試みがあまり見られまへんな。
そろそろ大阪の市民に飽きられてきたのかも知れまへんで。
(黄昏の 御堂筋)
イルミネーションが点灯されたようでっせ。
でも~ 周囲がまだ明るいので画像では今一でっかな。
(大阪ガス 本社ビル)
南側が空き地になったので全体が写しやすくなりましたで。
この大阪ガスさんの本社ビルも古くて貴重な建物でっかな。
1933年(昭和8年)完成のユニークなビルでっしゃろ。
この空き地には鉄ちゃん爺やが勤務した会社の親会社がおました。
(御堂筋の 古いビル群)
御堂筋の両側はビルの高さ制限が有りましたんで、昔は
ビルの高さが並んで、見事な風景が見られましたんや。
でも~ 現在は高さ制限が緩和されて、逆にビルの高さが
バラバラで鉄ちゃん爺やには、昔の方が懐かしいでっけど。
(最近の 御堂筋のビル群)
(淀屋橋 & 大阪市役所)
中之島地区のイルミネーション点灯は17時の予定だとか。
反対側は大阪の肥後橋方面の画像でっせ。
(淀屋橋から 肥後橋方面を撮影)
中央の高いビルが3つ並んでまっしゃろ、その一番奥
先程のテイジンさんが2017年に引っ越されるビル。
元は大阪の朝日新聞社が在った処に建設中のビルでんな。
それでは、光のルネサンス2016のイルミネーションを
貼り付けますので、ご覧になってくださいね。
(光のルネサンス2016 イルミネーション)
(大阪市役所 正面玄関のイルミ)
(日本銀行 大阪支店のライトアップ)
やはりプロジェクションマッピングが一番の人気かな。
登録文化財の中之島公会堂に幻想的な風景が醸し出されますので。
(中之島中央公会堂)
(中之島 遊歩道のイルミ)
最後はもう一度だけ、御堂筋のイルミに戻りまひょ。
一部は昨年の画像も含んでますのでご容赦のほど。
(御堂筋の イルミ)
それじゃ今回はこれでお仕舞にしまひょ。
次回は天王寺七坂をデシカメで紹介させてもらいまっさ。
ほな~ これで、さいなら~🎵
この街での散策はひとしおでしょうね~。
今朝のテレビ番組をみて
「ぶらり途中下車!京都・大阪2時間SP」を
録っています。
イルミネーションの時代からすれば、ずいぶん昔で今の人はどのように感じるのでしょうね。
確か、同じデザイナー?
懐かしい散歩も良いですよね。
偶然ですが、大屋政子さんのハワイの別荘なら見ましたよ。
ブーゲンビリアが咲き乱れていました。
当時と変わらない所はほっと安堵すっかり
変ってしまった所には複雑な気持ちだった
でしょうか?
イルミネーションは光のアート素敵ですが
オイルショックの節電体験してるので複雑
な気分も僅かながら感じますね。
由緒ある街堪能させていただきました。
追記
帝人は帝人がしっくりきます。
多くありましたが時代の流れで
殆どが取り壊されてしまいました。
20年ぐらい前から貴重な建物を残そうと
企業の方々がやっと動き出したようです。
船場でも北半分に保存が決まった建物が
多く残っています。
今回の大阪ガスさんのビルがその一つですかな。
呼ばれましたが最後の灯は残っていましたね。
丸紅や伊藤忠も船場のど真ん中に君臨していましたよ。
各社の1階には繊維部門が占めていましたからね。
やはり1970年代後半ぐらいに船場の衰退が始まったような記憶ですね。
知人が亡くなってしまってダメになりました。
もしも~ は禁句ですが知人が健在だったら
帝人に就職していたかもしれませんね。
大屋晋三さんは超ワンマン社長さんでしたから
大屋政子さんの推薦なら入社内定だったかも?
確か大屋晋三さんは死ぬまで社長を続ける言われてましたね。
私は帝人本社とは取引は出来ませんでしたが
子会社の帝人商事とは取引はしましたよ。
私が就職した頃には
地下鉄の本町駅に降りて船場を歩いて
会社へ向かうのがエリート社員の時代でした。
私も堺筋線の地下鉄が開通するまでの3年間だけ
地下鉄・御堂筋線の本町駅から歩いて会社へ
通勤した経験がありますね。
当時の建物や風景が残っているのを見つけるとやはり懐かしく感じますよ。
私も歳を取り過ぎたようですけど。
変化してるようですね。
丼池繊維卸街は月の内半分はお世話になってまして
沢山の問屋さんとの付き合いも有ったのですが
今は昔の話になってしまいました。
同じ頃何処かですれ違っていたかもしれませんね?
名古屋の繊維街(長者町)もすっかり影が薄れ
以前ほどの繊維街のイメージは無くなっています。
船場センタービルも良く利用しましたし
屋上の道路も何回走った事か・・・
たいがい四ツ橋筋で梅田方向(一方通行)に
向かいました。
東区役所無くなったんですね。
私の本籍は東区だったのですか今は
中央区になってしまいました。
ちょうど区役所の川向うに生まれた家が有り
終戦まで住んでいましたが、今は全く
面影が有りません。
子供のころ悪餓鬼達と川岸で遊んでいた
記憶が残っていますが・・・
川の東側でしたので船場とは言えませんが
本町橋から入ってすぐでした。
昔の感覚で御堂筋を歩くと自分の居場所が
解らなくなりそうです。
第一交差点の名前まで変わってるようですから・・
何処かですれ違っていた可能性もありますね。
北久太郎町3丁目の三休橋筋の角に
大阪三品取引所が在りまして
その指定倉庫が私の勤めていた会社でした。