大阪市の中央を南北に延びる丘がおますんや。
上町台地と呼び活断層で出来た崖が西側にあり
東側はほとんど段差を感じないような台地ですわ。
活断層と言っても約8000年ぐらい動いてなくて
もしも動いたら阪神淡路大震災級の地震になるとか。
この上町台地は大阪城付近が一番高くて天守閣付近で
標高が約38mぐらいと言われてますんや。
(大阪城 天守閣)
昨年の大河ドラマで有名になった真田丸付近を通り
茶臼山の古戦場の辺りまでが標高が約20m前後。
南へ延びる上町台地が攻防の戦場に成った訳でんな。
阿部野ハルカス付近を通過し路面電車の上町線と
並行しながら、住吉大社付近で標高約10mと下り
住吉区の清水丘辺りで一旦は消滅しますんや。
大和川を越えると再び浅香山台地となりまっけど
今回のお話とは関連がおまへんので省略しまひょ。
今回は、この上町台地の天王寺地区のお話でっせ。
「天王寺七坂」と呼ばれる七つの坂が在るんですわ。
それでは南の方から順に紹介して行きまひょ。
(四天王寺 石の鳥居)(重要文化財)
聖徳太子が造られた日本最古のお寺が四天王寺ですわ。
何度も火災や台風に遭い、現在の建物は昭和30年代で
歴史的な建物は殆ど残ってまへんけど。
お寺に鳥居とは似合わないと言われそうでっけど
中世の神仏習合時代の名残だと考えてくださいね。
この石の鳥居は鎌倉時代の永仁2年(1294年)に
朱塗りの鳥居から建て替えられたそうですわ。
扁額には嘉歴元年(1326年)の銘が刻まれ
この門から西側は極楽浄土だと書かれいるんだとか。
(大坂夏の陣 合戦絵図)
絵図の右側中央に鳥居が描かれてるのが四天王寺の鳥居で
その右側が真田幸村が徳川家康の本陣へ迫る姿ですかな。
(四天王寺 石の鳥居から 西側を望む)
中世には夕日が沈んでいく姿が良く見えたそうで
和歌や物語にもしばしば登場する名所だったんだとか。
現在も夕陽丘という地名や駅名が残ってまんねんで。
この鳥居の前から西側へ下っていく坂道が「逢坂」で
現在は国道25号線で大阪市から奈良への国道ですわ。
天王寺七坂の一番南になるんでっけど、現代的な国道で
これからお話する、天王寺七坂の情緒には欠けまっけど。
(逢坂の 坂道の途中に建つ 一心寺)
ブログで何度か紹介した「お骨仏」で有名なお寺でっせ。
後白河法皇がここで法然上人と夕日を眺めながら法話を
聞き、極楽往生を願ったとの逸話が残ってまっしゃろ。
大坂冬の陣では徳川家康の本陣として使われたそうで
この画像の左手を300mぐらい行くと茶臼山ですわ。
(大坂冬の陣の 絵地図)
絵地図の向かって左下に徳川家康の本陣が描かれてまっせ。
この位置が茶臼山と一心寺だとされてるようですわ。
大坂夏の陣では逆に大坂方の真田幸村がここに本陣を構え
現在の阿倍野方面に居る徳川家康の本陣に攻め込んだとか。
それでは「天王寺七坂」の話を続けることにしまひょ。
(天王寺七坂 逢坂の道標)
(天王寺七坂 逢坂の説明板)
(逢坂の坂下 明治30年の道標)
ここで逢坂を横断して少しだけ坂を登りまっせ。
一心寺の反対側には安居神社がおますんや。
(安居神社 門前)
元々は菅原道真公をお祀りする天満宮なんでっけど
真田幸村公が戦死した場所として有名になってまぁ。
(真田幸村公の 銅像)
(真田幸村公 陣没の説明板)
ここで私の首を討てと松平忠直の武将に命じて
いさぎよく戦死をしたと伝えられてますんや。
真田丸の人気でっしゃろな参拝客が5~6名。
一昨年までは訪れる人もない静かな神社でしたんや。
(安居神社の本殿)
「天王寺七坂」のお話がメインでっから境内を横切り
北側へ通り抜けさせてもらいまっせ。
(安居神社境内から 上町台地の崖を撮影)
上町台地の西側はこんな感じの崖になってますんや。
高低差は約10m~15mぐらいでっしゃろか。
安居神社の境内を北側へ抜けると「天王寺七坂」の
二つ目に当たる「天神坂」へ出てきましたで。
(天王寺七坂 天神坂の道標)
(天王寺七坂 天神坂の説明板)
説明するまでもなく安居神社へ通じる坂道ですわな。
「天王寺七坂」は最初の「逢坂」以外は車両通行止め。
石段や石畳で江戸時代からの風景を残す工夫がされてまぁ。
ここから再び「天神坂」を横切って北へ進みまっせ。
三つ目の「天王寺七坂」は「清水坂」と呼びまんねん。
(天王寺七坂 清水坂の道標)
(天王寺七坂 清水坂の説明板)
清水寺の北側を通る坂なので「清水坂」と呼びますんや。
京都の清水寺を模して造られたお寺なので地元では
「新清水さん」とか呼ぶことも有るそうですわ。
音羽の滝を模した「玉出の滝」が有り、清水寺の
舞台を小さくしたような舞台が高台の縁におまっせ。
山門の扉が閉まっているので写真は撮れまへんでした。
(清水寺の 側壁)
四つ目の坂道に向かって歩きまっさ。
次の「愛染坂」が一番有名かもしれまへんな。
「愛染坂」(あいぜんざか)と読みまんねんで。
(天王寺七坂 愛染坂の道標)
(天王寺七坂 愛染坂の説明板)
(愛染坂の 登り道)
(愛染坂の途中から 下りを撮影)
今度は「愛染坂」を登って上町台地の頂上へ行きまひょ。
この「愛染坂」の南側に「星光学園」という学校がおます。
江戸時代には料亭の「浮瀬亭」が在った場所なんだって。
松尾芭蕉が死の直前に訪れて、こんな句を詠まれたとか。
「松風の 軒をめぐりて 秋くれぬ 松尾芭蕉」
この句碑が構内に在るそうですが許可がないと入れまへん。
(星光学園の裏門)
(料亭 浮瀬亭跡の説明板)
江戸時代になっても、ここ「浮瀬亭」から大阪湾が見えて
淡路島や六甲山に沈んでいく夕日は有名だったんだね。
当時は大坂でも有名な料亭だったと記録には残ってますんや。
松尾芭蕉は此処で句会を開いた数日後に病の床についたとか。
元禄7年(1694年)9月26日のことだったそうな。
翌月の10月12日に大坂の地で亡くなっておられますよ。
登り切ると有名なお寺の門前に出てきますんや。
四天王寺の支院で勝鬘院(しょうまんいん)というお寺で
愛染堂(あいぜんどう)が在るので坂の名前にも成ってまぁ。
(勝鬘院 愛染堂の 薬医門)
大阪の夏祭りは、ここ「愛染さん」から始まりますんや。
確か6月30日から7月2日までだったと記憶しまぁ。
「愛染さん」「天神さん」「住吉さん」と続きまっせ。
大阪三大夏祭りで「愛染さん」は女性のお祭りだとか?
女性が浴衣姿で参加する祭りとして華やかなんでっせ。
一昔前までは北新地や今里新地の芸者さんが宝永かごで
練り歩く、お寺のお祭りとは思えない光景でしたかな。
(勝鬘院 愛染堂の本堂)
お祭りの際には四天王寺から役僧が来られるんだそうですわ。
四天王寺は戦後から「和宗」と呼ぶ宗派に属さないお寺でっせ。
江戸時代には天台宗のお寺だったと記録されてまつけど。
徳川時代の再建だそうですが空襲で焼けたのどうかは不明。
(勝鬘院 愛染堂の 多宝塔)(重要文化財)
大阪では一番古い多宝塔で豊臣秀吉が再建した堂塔だって。
付近は大阪の大空襲で焼けてしまったんでっけど、幸いにも
この多宝塔だけは焼失を免れたという貴重な建物でっせ。
戦前は国宝だったが、別に格下げになった訳ではおまへん。
現在は国の重要文化財に指定されているようでんな。
(勝鬘院 愛染堂の 多宝塔)(重要文化財)
多宝塔が御開帳されるのは夏の「愛染祭り」の3日間だけ。
大日大勝金剛尊という仏様が拝めるんだって。
ここは聖徳太子が造られた「施薬院=せやくいん」が
平安時代まで在った場所とされてますかな。
(愛染かつらの木)
かつらの木にノウゼン鬘が巻き付いている姿が
男女の愛欲を示しているとの説がおますんや。
男女二人で訪れると恋愛が成就するとの噂でっせ。
此処の木は大阪大空襲で傷みましたが、何とか
今日まで生き残ったと言われてるそうですわ。
「愛染かつら」の映画は戦前から戦後にかけて
三度ばかり上演されて話題になりましたかな。
鉄ちゃん爺やの時代は岡田茉莉子さんと山田輝雄さん
戦前なら田中絹代さんと上原謙さんが主役でんな。
戦後は京マチ子さんと鶴田浩二さんもおましたで。
主題歌「旅の夜風」なら若い方でもご存じかしら?
「花も嵐も踏み越えて~🎵 行くが男の生きる道~🎵」
霧島昇とミス・コロンビヤさんのデュエットソング。
当時100万枚近く売れたヒット曲だったとの話。
(愛染堂境内 愛染かつらの木)
小説に書かれた「愛染かつら」は長野県は別所温泉にある
北向き観音に在る「愛染かつら」だとの説が多いでっかな。
他には東京の谷中の自性院だともの説も焼失して現在は
「愛染かつら」があったのかどうかも不明。
こちら勝鬘院の愛染堂は昭和の初期に作家・川口松太郎が
近くに住んでいたとの説があるようですな。
「愛染かつら」で戦後の映画に出演した田中輝雄さんが
大阪大空襲で弱った「愛染かつら」の側に新しい苗木を
植えられ、桂の木が横で育っているという処でおます。
全国各地に同じような伝説が残されていますけど
小説の世界だから、何処が本当なのかは不明ですかな。
それでは坂を登りきつて谷町筋まで出てみまっせ。
(大阪府道 谷町筋)
片側四車線の立派な道路でっけど国道ではおまへん。
大阪府道で中世の熊野街道に沿って出来た新しい幹線道路。
(谷町筋の 道路標示板)
(大阪市営地下鉄 夕陽丘・四天王寺駅)
この付近が昔の名勝だった「夕陽丘」から採用でんな。
谷町線という大阪市で一番走行距離の長い地下鉄ですわ。
此処から次の五つ目の天王寺七坂へ向かいまっせ。
次は「口縄坂=くちなわざか」と言いますんやけど
長くなりますので、今回はここで中断させて貰いまひょ。
次回は「口縄坂」から後編を紹介させてもらいまっさ。
ほんなら、これで、さいなら~🎵
上町台地と呼び活断層で出来た崖が西側にあり
東側はほとんど段差を感じないような台地ですわ。
活断層と言っても約8000年ぐらい動いてなくて
もしも動いたら阪神淡路大震災級の地震になるとか。
この上町台地は大阪城付近が一番高くて天守閣付近で
標高が約38mぐらいと言われてますんや。
(大阪城 天守閣)
昨年の大河ドラマで有名になった真田丸付近を通り
茶臼山の古戦場の辺りまでが標高が約20m前後。
南へ延びる上町台地が攻防の戦場に成った訳でんな。
阿部野ハルカス付近を通過し路面電車の上町線と
並行しながら、住吉大社付近で標高約10mと下り
住吉区の清水丘辺りで一旦は消滅しますんや。
大和川を越えると再び浅香山台地となりまっけど
今回のお話とは関連がおまへんので省略しまひょ。
今回は、この上町台地の天王寺地区のお話でっせ。
「天王寺七坂」と呼ばれる七つの坂が在るんですわ。
それでは南の方から順に紹介して行きまひょ。
(四天王寺 石の鳥居)(重要文化財)
聖徳太子が造られた日本最古のお寺が四天王寺ですわ。
何度も火災や台風に遭い、現在の建物は昭和30年代で
歴史的な建物は殆ど残ってまへんけど。
お寺に鳥居とは似合わないと言われそうでっけど
中世の神仏習合時代の名残だと考えてくださいね。
この石の鳥居は鎌倉時代の永仁2年(1294年)に
朱塗りの鳥居から建て替えられたそうですわ。
扁額には嘉歴元年(1326年)の銘が刻まれ
この門から西側は極楽浄土だと書かれいるんだとか。
(大坂夏の陣 合戦絵図)
絵図の右側中央に鳥居が描かれてるのが四天王寺の鳥居で
その右側が真田幸村が徳川家康の本陣へ迫る姿ですかな。
(四天王寺 石の鳥居から 西側を望む)
中世には夕日が沈んでいく姿が良く見えたそうで
和歌や物語にもしばしば登場する名所だったんだとか。
現在も夕陽丘という地名や駅名が残ってまんねんで。
この鳥居の前から西側へ下っていく坂道が「逢坂」で
現在は国道25号線で大阪市から奈良への国道ですわ。
天王寺七坂の一番南になるんでっけど、現代的な国道で
これからお話する、天王寺七坂の情緒には欠けまっけど。
(逢坂の 坂道の途中に建つ 一心寺)
ブログで何度か紹介した「お骨仏」で有名なお寺でっせ。
後白河法皇がここで法然上人と夕日を眺めながら法話を
聞き、極楽往生を願ったとの逸話が残ってまっしゃろ。
大坂冬の陣では徳川家康の本陣として使われたそうで
この画像の左手を300mぐらい行くと茶臼山ですわ。
(大坂冬の陣の 絵地図)
絵地図の向かって左下に徳川家康の本陣が描かれてまっせ。
この位置が茶臼山と一心寺だとされてるようですわ。
大坂夏の陣では逆に大坂方の真田幸村がここに本陣を構え
現在の阿倍野方面に居る徳川家康の本陣に攻め込んだとか。
それでは「天王寺七坂」の話を続けることにしまひょ。
(天王寺七坂 逢坂の道標)
(天王寺七坂 逢坂の説明板)
(逢坂の坂下 明治30年の道標)
ここで逢坂を横断して少しだけ坂を登りまっせ。
一心寺の反対側には安居神社がおますんや。
(安居神社 門前)
元々は菅原道真公をお祀りする天満宮なんでっけど
真田幸村公が戦死した場所として有名になってまぁ。
(真田幸村公の 銅像)
(真田幸村公 陣没の説明板)
ここで私の首を討てと松平忠直の武将に命じて
いさぎよく戦死をしたと伝えられてますんや。
真田丸の人気でっしゃろな参拝客が5~6名。
一昨年までは訪れる人もない静かな神社でしたんや。
(安居神社の本殿)
「天王寺七坂」のお話がメインでっから境内を横切り
北側へ通り抜けさせてもらいまっせ。
(安居神社境内から 上町台地の崖を撮影)
上町台地の西側はこんな感じの崖になってますんや。
高低差は約10m~15mぐらいでっしゃろか。
安居神社の境内を北側へ抜けると「天王寺七坂」の
二つ目に当たる「天神坂」へ出てきましたで。
(天王寺七坂 天神坂の道標)
(天王寺七坂 天神坂の説明板)
説明するまでもなく安居神社へ通じる坂道ですわな。
「天王寺七坂」は最初の「逢坂」以外は車両通行止め。
石段や石畳で江戸時代からの風景を残す工夫がされてまぁ。
ここから再び「天神坂」を横切って北へ進みまっせ。
三つ目の「天王寺七坂」は「清水坂」と呼びまんねん。
(天王寺七坂 清水坂の道標)
(天王寺七坂 清水坂の説明板)
清水寺の北側を通る坂なので「清水坂」と呼びますんや。
京都の清水寺を模して造られたお寺なので地元では
「新清水さん」とか呼ぶことも有るそうですわ。
音羽の滝を模した「玉出の滝」が有り、清水寺の
舞台を小さくしたような舞台が高台の縁におまっせ。
山門の扉が閉まっているので写真は撮れまへんでした。
(清水寺の 側壁)
四つ目の坂道に向かって歩きまっさ。
次の「愛染坂」が一番有名かもしれまへんな。
「愛染坂」(あいぜんざか)と読みまんねんで。
(天王寺七坂 愛染坂の道標)
(天王寺七坂 愛染坂の説明板)
(愛染坂の 登り道)
(愛染坂の途中から 下りを撮影)
今度は「愛染坂」を登って上町台地の頂上へ行きまひょ。
この「愛染坂」の南側に「星光学園」という学校がおます。
江戸時代には料亭の「浮瀬亭」が在った場所なんだって。
松尾芭蕉が死の直前に訪れて、こんな句を詠まれたとか。
「松風の 軒をめぐりて 秋くれぬ 松尾芭蕉」
この句碑が構内に在るそうですが許可がないと入れまへん。
(星光学園の裏門)
(料亭 浮瀬亭跡の説明板)
江戸時代になっても、ここ「浮瀬亭」から大阪湾が見えて
淡路島や六甲山に沈んでいく夕日は有名だったんだね。
当時は大坂でも有名な料亭だったと記録には残ってますんや。
松尾芭蕉は此処で句会を開いた数日後に病の床についたとか。
元禄7年(1694年)9月26日のことだったそうな。
翌月の10月12日に大坂の地で亡くなっておられますよ。
登り切ると有名なお寺の門前に出てきますんや。
四天王寺の支院で勝鬘院(しょうまんいん)というお寺で
愛染堂(あいぜんどう)が在るので坂の名前にも成ってまぁ。
(勝鬘院 愛染堂の 薬医門)
大阪の夏祭りは、ここ「愛染さん」から始まりますんや。
確か6月30日から7月2日までだったと記憶しまぁ。
「愛染さん」「天神さん」「住吉さん」と続きまっせ。
大阪三大夏祭りで「愛染さん」は女性のお祭りだとか?
女性が浴衣姿で参加する祭りとして華やかなんでっせ。
一昔前までは北新地や今里新地の芸者さんが宝永かごで
練り歩く、お寺のお祭りとは思えない光景でしたかな。
(勝鬘院 愛染堂の本堂)
お祭りの際には四天王寺から役僧が来られるんだそうですわ。
四天王寺は戦後から「和宗」と呼ぶ宗派に属さないお寺でっせ。
江戸時代には天台宗のお寺だったと記録されてまつけど。
徳川時代の再建だそうですが空襲で焼けたのどうかは不明。
(勝鬘院 愛染堂の 多宝塔)(重要文化財)
大阪では一番古い多宝塔で豊臣秀吉が再建した堂塔だって。
付近は大阪の大空襲で焼けてしまったんでっけど、幸いにも
この多宝塔だけは焼失を免れたという貴重な建物でっせ。
戦前は国宝だったが、別に格下げになった訳ではおまへん。
現在は国の重要文化財に指定されているようでんな。
(勝鬘院 愛染堂の 多宝塔)(重要文化財)
多宝塔が御開帳されるのは夏の「愛染祭り」の3日間だけ。
大日大勝金剛尊という仏様が拝めるんだって。
ここは聖徳太子が造られた「施薬院=せやくいん」が
平安時代まで在った場所とされてますかな。
(愛染かつらの木)
かつらの木にノウゼン鬘が巻き付いている姿が
男女の愛欲を示しているとの説がおますんや。
男女二人で訪れると恋愛が成就するとの噂でっせ。
此処の木は大阪大空襲で傷みましたが、何とか
今日まで生き残ったと言われてるそうですわ。
「愛染かつら」の映画は戦前から戦後にかけて
三度ばかり上演されて話題になりましたかな。
鉄ちゃん爺やの時代は岡田茉莉子さんと山田輝雄さん
戦前なら田中絹代さんと上原謙さんが主役でんな。
戦後は京マチ子さんと鶴田浩二さんもおましたで。
主題歌「旅の夜風」なら若い方でもご存じかしら?
「花も嵐も踏み越えて~🎵 行くが男の生きる道~🎵」
霧島昇とミス・コロンビヤさんのデュエットソング。
当時100万枚近く売れたヒット曲だったとの話。
(愛染堂境内 愛染かつらの木)
小説に書かれた「愛染かつら」は長野県は別所温泉にある
北向き観音に在る「愛染かつら」だとの説が多いでっかな。
他には東京の谷中の自性院だともの説も焼失して現在は
「愛染かつら」があったのかどうかも不明。
こちら勝鬘院の愛染堂は昭和の初期に作家・川口松太郎が
近くに住んでいたとの説があるようですな。
「愛染かつら」で戦後の映画に出演した田中輝雄さんが
大阪大空襲で弱った「愛染かつら」の側に新しい苗木を
植えられ、桂の木が横で育っているという処でおます。
全国各地に同じような伝説が残されていますけど
小説の世界だから、何処が本当なのかは不明ですかな。
それでは坂を登りきつて谷町筋まで出てみまっせ。
(大阪府道 谷町筋)
片側四車線の立派な道路でっけど国道ではおまへん。
大阪府道で中世の熊野街道に沿って出来た新しい幹線道路。
(谷町筋の 道路標示板)
(大阪市営地下鉄 夕陽丘・四天王寺駅)
この付近が昔の名勝だった「夕陽丘」から採用でんな。
谷町線という大阪市で一番走行距離の長い地下鉄ですわ。
此処から次の五つ目の天王寺七坂へ向かいまっせ。
次は「口縄坂=くちなわざか」と言いますんやけど
長くなりますので、今回はここで中断させて貰いまひょ。
次回は「口縄坂」から後編を紹介させてもらいまっさ。
ほんなら、これで、さいなら~🎵
今年は4月か6月どちらかで行きます。
今日は夜から雨です。今年最初のカラオケ すがたで歌いました。天王寺は良い所です・。谷町筋は自転車で走りましたよ。大阪天王寺の道へは完璧に覚えましたよ
途中に天然温泉があるので行きと帰りに入って帰る予定です。 今年も宜しくです。
坂でも道標に記されないものもあるので
かなりの数の坂があります。
「馬坂」「直右衛門坂」「大日坂」「動坂」「勘右衛門坂」
「治助坂」「宗四郎坂」などが近くにございます。
愛染とくれば私の世代でさえ愛染かつらに
なりますね。
ヒット曲も題名は知らずとも歌いだしはあま
りに有名。
愛染さんってお祭りは知りませんでした。
三大祭盛大なんでしょうね。
まだまだ知らない大阪です。
上り下りされたから高低差は同じぐらい。
ただ車が通れないようになっているので
スケッチされる方や写真を撮られる方には
人気があるようですよ。
七つと共に綺麗な名前が付けられているので
坂のイメージより名前が勝っているかもしれませんよ。
大阪では坂があるのは上町台地の西側と
淀川や大和川などの橋を渡る際の前後のみ。
大阪市内は上町台地を除けば平安時代までは
海の底かそれとも川の湿地帯でしたから。
主題歌はデユエットのこちらも元祖かな?
戦後は「君の名」の方が有名になりましたが
最近のアニメで同じ名前が使われてるようで
私達の年代としてはやや違和感があるかも。
愛染祭りは大阪の三大夏祭りなんですが
天神祭りには及びませんよ。
浴衣姿の艶やかな若い女性の姿は写真に収めるには
マニアには良い題材かもしれませんね。
坂を歩きましたね。松屋町筋から谷町筋の高低は
かなり強く、下寺町から生魂神社の坂を自転車で
子供の頃登っていましたね。
小学生の頃大相撲大阪場所の時、力士が
泊まる寺が集まる寺町に日参でした。
残念ながら愛染さんのまつりには行った事が有りません。
懐かしいですが、面影は消えてしまってるでしょうね。
芭蕉の句「松風の~」は、資料によると、
大阪清水茶店四郎左衛門にて、と注意書きがありました。
真田丸は好評のうちに終わり
直虎が始まり浜松が舞台ですが
県全体が持ち上がっていますよ
愛染かつら
歌を聞いたことあります
大阪の事は知らないことばかり
興味が湧きます
私は子供の頃は住吉神社の方でしたから
生魂神社の詳しい記憶はありません。
何度か参拝はしてますが最近は周りが
ラブホテル街で神様も困惑されているかもしれませんね。