「源氏」と言えば「源頼朝」を挙げる方が大半かも?
そして神奈川県の鎌倉をイメージされるんでしょうな。
「源頼朝公」が我が家のルーツは河内の国・石川郡
壺井の郷に起こりし「河内源氏」なりと記させたとか。
現在の大阪府羽曳野市壷井の辺りになるようですわ。
鉄ちゃん爺やの住む自宅から南へ約3kmぐらいでんな。
(壺井八幡宮の 額)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/33/70/7b27dd5c4209d60dc9bdc8d2546d024b.jpg)
(源氏の故郷 壷井郷を石川から望む)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/78/d8/27f59d663a00bb2e0b0690f2493176a6.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0b/bd/cf09f8625de56429fc6df60d9c53042f.jpg)
歴史に詳しい方ならご存知の「河内源氏」と呼びますんや。
平安時代の1020年(寛仁4年)「源頼信=よりのぶ」が
河内守に任官した際に館を建て土着したと言われてますんや。
「源頼信」を初代に嫡男の「源頼義」そして孫の「源義家」の
お三方を合わせまして「源氏三代」とお呼びするそうですわ。
(河内源氏 三代の系図)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/69/cb/6b19380ebab8da8d9a1df8c9b0570a13.jpg)
後世に「源頼朝公」が征夷大将軍に出世しなかったら?
草深い山里は埋もれてしまい歴史上に残らなかったかも。
「源頼朝公」の後付けかもしれまへんが、我は河内源氏の
嫡流である八幡太郎「源義家公」の玄孫であるぞよと。
ここからは「源氏三代の」詳しい話に成りますんで
興味ない方は、画像だけを眺めてスルーなさってください。
(通法寺の 楼門)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/79/51/05b9a5dfe1ce3e47758a6721c899b661.jpg)
現在は楼門だけが残り堂塔は一つも残ってまへんのや。
ここは「河内源氏」の菩提寺だったと言えまっかな。
だから「源頼信」「源頼義」のお墓が残ってまぁ。
明治の廃仏毀釈で急速に衰えたそうですわ。
(通法寺の 絵図)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/60/f8/dc3c565028985c70de81605a3d45b169.jpg)
中世には立派なお寺だったようでっけど、中世の戦乱で
壺井八幡宮と共に焼失してしまったようでんな。
徳川幕府により再建されたそうで、同時に
江戸時代には「河内源氏」の流れを汲む下館藩の
石川家の領地とされたことも有ったそうでっせ。
(源氏三代の墓 説明書き)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/03/a8/4f0fe1202a806dcff91dd06a7ae8d5c7.jpg)
初代の「源頼信」は歳の離れた三男だったようですわ。
当時は関白家の藤原道兼や道長に仕える侍だったとか。
長兄の「源頼光」や次兄の「源頼親」に頭が上がらず
河内に土着しながら目を東国に向けたようですわ。
京都では兄二人より位は上に成れないだろうな。
関東なら武士の棟梁になれるかも、と考えたはず。
(壺井八幡宮の 鳥居)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/49/87/b6ec0d6ce059359b45e8b31392ad5446.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/62/58/2106602be106450611ee77e9a0724cb2.jpg)
(壺井八幡宮の 拝殿)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3d/38/c4d30aeeeb90278875d0ce68ff574712.jpg)
残念ながら「香炉峰=こうろうほ」と呼ばれた建物の
位置や、当時の屋敷跡などは確認できないんだって。
ここは「源頼義=よりよし」が石清水八幡宮から
勧請して源氏の氏神とした壺井八幡宮でおます。
「源氏」を名乗った徳川綱吉公が柳沢吉保に命じて
再建させた拝殿が、現在の壷井八幡宮だそうですわ。
おそらくこの小高い丘に「香炉峰」と呼ばれる
武士の館が置かれていたと考えられますんや。
(源氏三代の 故地)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/61/ee/fac21e8d36bd50feee5851f5e41367c7.jpg)
この「香炉峰」と呼ばれた武士の館で「源頼義」を
筆頭に、孫になる八幡太郎「源義家」や
賀茂の次郎「源義綱」に新羅三郎「源義光」が
育ったんだろうなと、考えて見ましたんや。
「源頼朝公」だけじゃなくて後世の足利家・新田家
甲斐の国の武田家や、常陸の佐竹家に信濃の村上家
ご先祖様は皆ここからスタートされたことになりまぁ。
後世に源氏を名乗る名門は全てが「河内源氏」の末裔。
本家の「摂津源氏」は中世には断絶してますんや。
(源頼義の お墓)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5f/d5/b65461df9f06ae93917ba733f3866832.jpg)
「源頼義」は弓の達人だったそうで父親「源頼信」と
共に関東に出陣し「平忠常の乱」を鎮圧したんだって。
鎌倉に本拠地を置いていた「平直方」は乱の鎮圧に
失敗したのを恥じたとか、言われてはりまぁ。
あの平将門の乱を鎮圧した「平貞盛」の曽孫でっせ。
坂東平氏の嫡流になるお方なんですが武士と言うより
京都朝廷の官僚さんと化していたのかも知れまへん。
「源頼義」の若武者ぶりに深く感動したんだとか。
この青年が武家の棟梁だ悟り「源頼義」に娘を嫁がせ
同時に鎌倉は大蔵の地を「源頼義」に寄進したとも。
これが後世に鎌倉が源氏の本拠地とされる由縁となり
「源頼朝」の鎌倉幕府に繋がることになりますんや。
この「源頼義」と「平直方の娘」の間に生まれたのが
河内源氏三代目の嫡男である「源義家」となりまぁ。
(源義家の お墓)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/63/5a/a59a97c9d431e247e1c91508a38c7dd0.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1c/df/5460a881af767fea863c0ceb47051f70.jpg)
石清水八幡宮で元服したので八幡太郎義家と呼びまぁ。
太郎と名乗っているので「源頼義」の長男ですわな。
父親の「源頼義」と共に「前九年の役」を戦い
後には「後三年の役」にも勝利したこともあり。
東国で武士の棟梁として頂点に昇ったお方ですかな。
日本一「武士の棟梁」と評されたので敵も多かった?
残念ながら「白河法皇」の策略に嵌まったそうで
一族の内紛が起こり京都から追い出されて最後は
ここ河内の壷井郷で寂しく亡くなったようでんな。
「白河法皇」の平家を登用する策略に嫡男や弟が
討伐されて源氏の嫡流が一時は衰えるんですわ。
「保元の乱」に「平治の乱」と時代は流れて
八幡太郎義家が亡くなってから約74年後の。
伊豆で「源頼朝」が挙兵したのが1180年
「驕る平家は久しからず」と成りますのかな。
平家の全盛時代を経て玄孫の「源頼朝」の時代を
迎える話は、NHKの大河ドラマなどでご承知かと。
(源義家の 歌碑)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2e/9c/beae195a3249d5b20123d7aeba6f51e7.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1d/06/6533395d3e7b1a548b52e9b0d7289ea8.jpg)
「吹く風を 勿来の関と思えども
道も世に散る 山桜かな 源義家」
「源義家」は荒くれ武者でもなく、こんな和歌を。
「後三年の役」を終えて京都へ戻る際に
勿来の関で散りゆく山桜を詠んだ和歌なんだとか。
「文武両道」の優れた武将だったと言えますかな。
同じ碑が福島県の勿来の関跡にも有るそうでっせ。
(通法寺跡にて 撮影)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/48/3c/083e8c512fa5a6a80df1df60ee49cde7.jpg)
こんなイノシシが出るような山里でっけど、日本史に
徳川幕府が倒れるまで約700年間も源氏の故郷として
崇敬された、故地だとされてますんや。
長くなりますんで、今日はこれにてお仕舞にしまひょ。
ほんなら~ これで、さいなら~🎵
そして神奈川県の鎌倉をイメージされるんでしょうな。
「源頼朝公」が我が家のルーツは河内の国・石川郡
壺井の郷に起こりし「河内源氏」なりと記させたとか。
現在の大阪府羽曳野市壷井の辺りになるようですわ。
鉄ちゃん爺やの住む自宅から南へ約3kmぐらいでんな。
(壺井八幡宮の 額)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/33/70/7b27dd5c4209d60dc9bdc8d2546d024b.jpg)
(源氏の故郷 壷井郷を石川から望む)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/78/d8/27f59d663a00bb2e0b0690f2493176a6.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0b/bd/cf09f8625de56429fc6df60d9c53042f.jpg)
歴史に詳しい方ならご存知の「河内源氏」と呼びますんや。
平安時代の1020年(寛仁4年)「源頼信=よりのぶ」が
河内守に任官した際に館を建て土着したと言われてますんや。
「源頼信」を初代に嫡男の「源頼義」そして孫の「源義家」の
お三方を合わせまして「源氏三代」とお呼びするそうですわ。
(河内源氏 三代の系図)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/69/cb/6b19380ebab8da8d9a1df8c9b0570a13.jpg)
後世に「源頼朝公」が征夷大将軍に出世しなかったら?
草深い山里は埋もれてしまい歴史上に残らなかったかも。
「源頼朝公」の後付けかもしれまへんが、我は河内源氏の
嫡流である八幡太郎「源義家公」の玄孫であるぞよと。
ここからは「源氏三代の」詳しい話に成りますんで
興味ない方は、画像だけを眺めてスルーなさってください。
(通法寺の 楼門)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/79/51/05b9a5dfe1ce3e47758a6721c899b661.jpg)
現在は楼門だけが残り堂塔は一つも残ってまへんのや。
ここは「河内源氏」の菩提寺だったと言えまっかな。
だから「源頼信」「源頼義」のお墓が残ってまぁ。
明治の廃仏毀釈で急速に衰えたそうですわ。
(通法寺の 絵図)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/60/f8/dc3c565028985c70de81605a3d45b169.jpg)
中世には立派なお寺だったようでっけど、中世の戦乱で
壺井八幡宮と共に焼失してしまったようでんな。
徳川幕府により再建されたそうで、同時に
江戸時代には「河内源氏」の流れを汲む下館藩の
石川家の領地とされたことも有ったそうでっせ。
(源氏三代の墓 説明書き)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/03/a8/4f0fe1202a806dcff91dd06a7ae8d5c7.jpg)
初代の「源頼信」は歳の離れた三男だったようですわ。
当時は関白家の藤原道兼や道長に仕える侍だったとか。
長兄の「源頼光」や次兄の「源頼親」に頭が上がらず
河内に土着しながら目を東国に向けたようですわ。
京都では兄二人より位は上に成れないだろうな。
関東なら武士の棟梁になれるかも、と考えたはず。
(壺井八幡宮の 鳥居)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/49/87/b6ec0d6ce059359b45e8b31392ad5446.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/62/58/2106602be106450611ee77e9a0724cb2.jpg)
(壺井八幡宮の 拝殿)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3d/38/c4d30aeeeb90278875d0ce68ff574712.jpg)
残念ながら「香炉峰=こうろうほ」と呼ばれた建物の
位置や、当時の屋敷跡などは確認できないんだって。
ここは「源頼義=よりよし」が石清水八幡宮から
勧請して源氏の氏神とした壺井八幡宮でおます。
「源氏」を名乗った徳川綱吉公が柳沢吉保に命じて
再建させた拝殿が、現在の壷井八幡宮だそうですわ。
おそらくこの小高い丘に「香炉峰」と呼ばれる
武士の館が置かれていたと考えられますんや。
(源氏三代の 故地)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/61/ee/fac21e8d36bd50feee5851f5e41367c7.jpg)
この「香炉峰」と呼ばれた武士の館で「源頼義」を
筆頭に、孫になる八幡太郎「源義家」や
賀茂の次郎「源義綱」に新羅三郎「源義光」が
育ったんだろうなと、考えて見ましたんや。
「源頼朝公」だけじゃなくて後世の足利家・新田家
甲斐の国の武田家や、常陸の佐竹家に信濃の村上家
ご先祖様は皆ここからスタートされたことになりまぁ。
後世に源氏を名乗る名門は全てが「河内源氏」の末裔。
本家の「摂津源氏」は中世には断絶してますんや。
(源頼義の お墓)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5f/d5/b65461df9f06ae93917ba733f3866832.jpg)
「源頼義」は弓の達人だったそうで父親「源頼信」と
共に関東に出陣し「平忠常の乱」を鎮圧したんだって。
鎌倉に本拠地を置いていた「平直方」は乱の鎮圧に
失敗したのを恥じたとか、言われてはりまぁ。
あの平将門の乱を鎮圧した「平貞盛」の曽孫でっせ。
坂東平氏の嫡流になるお方なんですが武士と言うより
京都朝廷の官僚さんと化していたのかも知れまへん。
「源頼義」の若武者ぶりに深く感動したんだとか。
この青年が武家の棟梁だ悟り「源頼義」に娘を嫁がせ
同時に鎌倉は大蔵の地を「源頼義」に寄進したとも。
これが後世に鎌倉が源氏の本拠地とされる由縁となり
「源頼朝」の鎌倉幕府に繋がることになりますんや。
この「源頼義」と「平直方の娘」の間に生まれたのが
河内源氏三代目の嫡男である「源義家」となりまぁ。
(源義家の お墓)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/63/5a/a59a97c9d431e247e1c91508a38c7dd0.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1c/df/5460a881af767fea863c0ceb47051f70.jpg)
石清水八幡宮で元服したので八幡太郎義家と呼びまぁ。
太郎と名乗っているので「源頼義」の長男ですわな。
父親の「源頼義」と共に「前九年の役」を戦い
後には「後三年の役」にも勝利したこともあり。
東国で武士の棟梁として頂点に昇ったお方ですかな。
日本一「武士の棟梁」と評されたので敵も多かった?
残念ながら「白河法皇」の策略に嵌まったそうで
一族の内紛が起こり京都から追い出されて最後は
ここ河内の壷井郷で寂しく亡くなったようでんな。
「白河法皇」の平家を登用する策略に嫡男や弟が
討伐されて源氏の嫡流が一時は衰えるんですわ。
「保元の乱」に「平治の乱」と時代は流れて
八幡太郎義家が亡くなってから約74年後の。
伊豆で「源頼朝」が挙兵したのが1180年
「驕る平家は久しからず」と成りますのかな。
平家の全盛時代を経て玄孫の「源頼朝」の時代を
迎える話は、NHKの大河ドラマなどでご承知かと。
(源義家の 歌碑)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2e/9c/beae195a3249d5b20123d7aeba6f51e7.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1d/06/6533395d3e7b1a548b52e9b0d7289ea8.jpg)
「吹く風を 勿来の関と思えども
道も世に散る 山桜かな 源義家」
「源義家」は荒くれ武者でもなく、こんな和歌を。
「後三年の役」を終えて京都へ戻る際に
勿来の関で散りゆく山桜を詠んだ和歌なんだとか。
「文武両道」の優れた武将だったと言えますかな。
同じ碑が福島県の勿来の関跡にも有るそうでっせ。
(通法寺跡にて 撮影)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/48/3c/083e8c512fa5a6a80df1df60ee49cde7.jpg)
こんなイノシシが出るような山里でっけど、日本史に
徳川幕府が倒れるまで約700年間も源氏の故郷として
崇敬された、故地だとされてますんや。
長くなりますんで、今日はこれにてお仕舞にしまひょ。
ほんなら~ これで、さいなら~🎵
どこかでこの歌の石碑を見たような記憶です。
こんな所かと寂れた山奥の記憶です。
話変わりますが、父の実家は岐阜県の山の中で、
栄次郎源頼明と言っていたと言うのです。
父親の戸籍を取ったら、戸籍の最初は源氏としかありませんでした。
次いで母親の戸籍をたどったら平氏となって居りました。
面白い夫婦だとその頃思いました。
思いもよらず足腰の力が無くなるもんですね~
今のところあまり遠くまで歩く力が出てきません。
前立前がん手術の後の尿漏れは医師が言っている以上
大変ですね~、歩くにも尿漏れパットを付けて歩いていると違和感があり、気が付かないうちに漏れていると
大体2ヶ月くらいこういう事が続きそうです。
勿来の関に行ったことがあります。
そんな言われがあったのですね。
河内源氏ですか~ちょっと意外。
新型特急「あずさ」は本当に面白い形をしていると思います。男性好みのスタイルと言ったらいいでしょうか。
初めて見た時は昆虫だと思いましたよ。
普通キリ番ゲットは、コメントに書いて下さらない限りわかりません。
たまたま、私のメールアドレスを知っている方だったので、お祝いのメールを頂戴したのです。
それをそのまま使わせてもらいました。
お孫さんの大学入学おめでとうございます。息子も大学生の時に学習塾の講師や、家庭教師をしていました。
時間給はいいですが、「必ず志望校に合格させなくてはいけないので、神経を使うよ」と言っていたのを思い出しました。
地方に根を生やして武士となっていくのですから
ルーツは関西にありですね。
良い週末をお過ごしください。
木造の小さめの立像でした。
いつもと違いますね。
歴史って、詳しい人は、別の歴史をご存知なんですねえ。
庶民じゃない武士の出なんだぞと
苗字に箔をつけているんでしょうね。
内の奥さんの実家である橘氏は
有名な割に早く没落したので少ないですよ。
他人ごとじゃないですから。
興味のない方はご存じないでしょうね。
地元の我が街でさえPR不足ですから。