今回は関の小万のお話からいきまひょ~
(福蔵寺 三重県亀山市関町)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
このお寺は織田信長の三男で織田信孝の菩提寺になってまんねん。
彼は伊勢の神戸家(かんべけ)に養子に入っていたんですが兄の織田信雄により
自害させられて首だけが伊勢へ戻されたそうな
だけど神戸家から首の受取を拒否され部下がここ福蔵寺に弔ったそうですわ。。
そやけど地元では神戸信孝さんより関の小万のお墓がある方が有名なようでっせ。
(福蔵寺境内 関の小万の墓)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
小万は女性ながら亡き父の仇討ちをしたことで有名になったお方でっせ。
父親は久留米藩有馬家の剣術指南役で牧藤左衛門と呼ばれてましたが
同輩の小路元成の遺恨により殺害されたそうな。
小林軍太夫と名前を変えて亀山藩に居ることを聞き、身重の妻が敵討ちの旅に出て
ここ関町の地蔵院前で疲れから行き倒れの状態で保護されたんだそうですわ。
旅籠の山田屋の夫婦が自宅へ招き入れ看病中に生まれたのが「小万」で
母親は娘の将来と仇討ちの事を遺言して産後のひだちが悪く死んでしまいまんねん。
山田屋の娘として育てられた「小万」が15歳の頃に養父母から母親の
遺言を聞かされ代わりに自分が仇討ちをする覚悟を決めたんだそうですわ。
亀山城下の榊原権八郎の道場へ三年間の剣術を習いに通ったそうです。
女性が男性に勝てるのは「突きの一手」しかないとの教えだったようでっせ。
(福蔵寺門前の石碑)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
1783年(天明3年)亀山城大手門前で小林軍太夫を見つけ見事に
本懐を遂げたと言う仇討ちのお話が「関の小万の物語」ですわ。
やはり「小万」を裏から支えた人が関町や亀山城下に居たんでしょうな。
「小万」が仇討ちをしたのが18歳でその後はお礼奉公として旅籠の山田屋で
38歳まで努めたそうで山田屋は烈女「小万」を一目みようと泊り客で
大いに繁盛し山田屋の養父母に恩返しをしたということで、めでたしめでたし。
38歳で亡くなりここ関宿の福蔵寺に葬られたというお話ですわ。
(山田屋はその後、会津屋と名前を変えて 現在はお蕎麦の店)
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(関町 伊藤本陣跡)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
関宿には本陣が2軒(川北・伊藤)と脇本陣が2軒在ったそうでっけど
本陣はここ伊藤家に店の一部が残っているだけで残念ながら見れませんな。
ところで話、変わって「馬子唄」てご存知でっしゃろ。
ここ関町から鈴鹿峠を越えて滋賀県の方までは「鈴鹿馬子唄」がありまっせ。
「坂は照るてる鈴鹿は曇る あいの土山雨が降る」
坂は関宿のお隣にある坂下宿で鈴鹿峠を超えた処が次の土山宿だっせ。
あいの土山ちゅうのは昔、間の宿と呼んだとか言う処からでっしゃろな。
歌川広重の浮世絵でも土山は雨が降っているように描かれてまんな。
別に雨が多いわけじゃないんでっけど鈴鹿馬子唄から採ったんでっしゃろか。
(関町の マンホールの蓋) (昔の鈴鹿郡関町時代からのデザイン)
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鈴鹿馬子唄を続けてみまひょ~♪
「坂は照るてる鈴鹿は曇る あいの土山雨が降る」
「馬がものいうた鈴鹿の坂で おさん女郎なら乗しょうというた」
「手綱片手の浮雲くらし 馬の鼻歌通り雨」
「与作想えば照る日も曇る 関の小万の涙雨」
「関の小万が亀山通い 月に雪駄が二十五足」
「馬はいんだにお主は見えぬ 関の小万がとめたやら」
「昔恋しや鈴鹿を越えりゃ 関の小万の声がする」
何となく色っぽい馬子唄でっしゃろ、実は「関の小万」は二人いてはりまっせ。
仇討ちをした「小万」は歌詞の5番目に出てくる亀山通いだけでんねん。
もう一人の「小万」は近松門左衛門の浄瑠璃に出てくる「遊女 小万」で
仇討ちの「小万」より100年ぐらい前の宝永時代のお話でんな。
与作という色男に関宿の遊女・小万をからました人情噺の人物ですわ。
だから鈴鹿馬子唄に後から仇討ちの「小万」を挟んだようでんな。
(現在の 鈴鹿峠) (峠の鏡岩から国道1号線を見下ろす)
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鈴鹿峠は旧東海道五十三次では箱根の峠に次ぐ難所ちゅうことになってまんな。
爺やが昔に通った感じではそんなに大変な峠でもないんでっけど。
確かに三重県側は急な勾配でっけど滋賀県側はだらだらと緩やかない坂道でんな。
画像はその急勾配を峠から三重県側を見下ろしたもんでっけど。
旧の東海道が通る鈴鹿峠で標高378mでっさかいに箱根とはえらい違いでっせ。
(旧の東海道 鈴鹿峠に残る 巨大な石灯篭)
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(旧の東海道 鈴鹿峠)
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私の知ってる馬子唄を 第一小節だけ書き込んで見まっさ。
「箱根八里は馬でも越すが 越すに越されぬ大井川」 箱根馬子唄
「赤城しぐれて沼田は雨よ 明日は水上・湯檜曽まで」 上州馬子唄
「小諸出てみよ浅間の山に けさも三筋の煙たつ」 小諸馬子唄
馬子唄ちゅうのは東日本がほとんどで西日本には、わてが知ってる限りは
高知県になんとかいう馬子唄がおまっけど名前を忘れましたわ。
やはり西日本は瀬戸内海を中心に船が物流の中心で東日本は山国が多く
馬や牛を使うのが江戸時代の物流なので馬子唄も東日本に多いようでんな。
鈴鹿峠は関町から滋賀県へ向かう方が急な坂道でっさかいに
滋賀県から関町へ下りてくるより馬に乗せてもらう料金が3割高かったそうでっせ。
ほな~ 今日はこれで終わらしてもらいまっさ さいなら~
(福蔵寺 三重県亀山市関町)
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このお寺は織田信長の三男で織田信孝の菩提寺になってまんねん。
彼は伊勢の神戸家(かんべけ)に養子に入っていたんですが兄の織田信雄により
自害させられて首だけが伊勢へ戻されたそうな
だけど神戸家から首の受取を拒否され部下がここ福蔵寺に弔ったそうですわ。。
そやけど地元では神戸信孝さんより関の小万のお墓がある方が有名なようでっせ。
(福蔵寺境内 関の小万の墓)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
小万は女性ながら亡き父の仇討ちをしたことで有名になったお方でっせ。
父親は久留米藩有馬家の剣術指南役で牧藤左衛門と呼ばれてましたが
同輩の小路元成の遺恨により殺害されたそうな。
小林軍太夫と名前を変えて亀山藩に居ることを聞き、身重の妻が敵討ちの旅に出て
ここ関町の地蔵院前で疲れから行き倒れの状態で保護されたんだそうですわ。
旅籠の山田屋の夫婦が自宅へ招き入れ看病中に生まれたのが「小万」で
母親は娘の将来と仇討ちの事を遺言して産後のひだちが悪く死んでしまいまんねん。
山田屋の娘として育てられた「小万」が15歳の頃に養父母から母親の
遺言を聞かされ代わりに自分が仇討ちをする覚悟を決めたんだそうですわ。
亀山城下の榊原権八郎の道場へ三年間の剣術を習いに通ったそうです。
女性が男性に勝てるのは「突きの一手」しかないとの教えだったようでっせ。
(福蔵寺門前の石碑)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
1783年(天明3年)亀山城大手門前で小林軍太夫を見つけ見事に
本懐を遂げたと言う仇討ちのお話が「関の小万の物語」ですわ。
やはり「小万」を裏から支えた人が関町や亀山城下に居たんでしょうな。
「小万」が仇討ちをしたのが18歳でその後はお礼奉公として旅籠の山田屋で
38歳まで努めたそうで山田屋は烈女「小万」を一目みようと泊り客で
大いに繁盛し山田屋の養父母に恩返しをしたということで、めでたしめでたし。
38歳で亡くなりここ関宿の福蔵寺に葬られたというお話ですわ。
(山田屋はその後、会津屋と名前を変えて 現在はお蕎麦の店)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
(関町 伊藤本陣跡)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
関宿には本陣が2軒(川北・伊藤)と脇本陣が2軒在ったそうでっけど
本陣はここ伊藤家に店の一部が残っているだけで残念ながら見れませんな。
ところで話、変わって「馬子唄」てご存知でっしゃろ。
ここ関町から鈴鹿峠を越えて滋賀県の方までは「鈴鹿馬子唄」がありまっせ。
「坂は照るてる鈴鹿は曇る あいの土山雨が降る」
坂は関宿のお隣にある坂下宿で鈴鹿峠を超えた処が次の土山宿だっせ。
あいの土山ちゅうのは昔、間の宿と呼んだとか言う処からでっしゃろな。
歌川広重の浮世絵でも土山は雨が降っているように描かれてまんな。
別に雨が多いわけじゃないんでっけど鈴鹿馬子唄から採ったんでっしゃろか。
(関町の マンホールの蓋) (昔の鈴鹿郡関町時代からのデザイン)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
鈴鹿馬子唄を続けてみまひょ~♪
「坂は照るてる鈴鹿は曇る あいの土山雨が降る」
「馬がものいうた鈴鹿の坂で おさん女郎なら乗しょうというた」
「手綱片手の浮雲くらし 馬の鼻歌通り雨」
「与作想えば照る日も曇る 関の小万の涙雨」
「関の小万が亀山通い 月に雪駄が二十五足」
「馬はいんだにお主は見えぬ 関の小万がとめたやら」
「昔恋しや鈴鹿を越えりゃ 関の小万の声がする」
何となく色っぽい馬子唄でっしゃろ、実は「関の小万」は二人いてはりまっせ。
仇討ちをした「小万」は歌詞の5番目に出てくる亀山通いだけでんねん。
もう一人の「小万」は近松門左衛門の浄瑠璃に出てくる「遊女 小万」で
仇討ちの「小万」より100年ぐらい前の宝永時代のお話でんな。
与作という色男に関宿の遊女・小万をからました人情噺の人物ですわ。
だから鈴鹿馬子唄に後から仇討ちの「小万」を挟んだようでんな。
(現在の 鈴鹿峠) (峠の鏡岩から国道1号線を見下ろす)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
鈴鹿峠は旧東海道五十三次では箱根の峠に次ぐ難所ちゅうことになってまんな。
爺やが昔に通った感じではそんなに大変な峠でもないんでっけど。
確かに三重県側は急な勾配でっけど滋賀県側はだらだらと緩やかない坂道でんな。
画像はその急勾配を峠から三重県側を見下ろしたもんでっけど。
旧の東海道が通る鈴鹿峠で標高378mでっさかいに箱根とはえらい違いでっせ。
(旧の東海道 鈴鹿峠に残る 巨大な石灯篭)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
(旧の東海道 鈴鹿峠)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
私の知ってる馬子唄を 第一小節だけ書き込んで見まっさ。
「箱根八里は馬でも越すが 越すに越されぬ大井川」 箱根馬子唄
「赤城しぐれて沼田は雨よ 明日は水上・湯檜曽まで」 上州馬子唄
「小諸出てみよ浅間の山に けさも三筋の煙たつ」 小諸馬子唄
馬子唄ちゅうのは東日本がほとんどで西日本には、わてが知ってる限りは
高知県になんとかいう馬子唄がおまっけど名前を忘れましたわ。
やはり西日本は瀬戸内海を中心に船が物流の中心で東日本は山国が多く
馬や牛を使うのが江戸時代の物流なので馬子唄も東日本に多いようでんな。
鈴鹿峠は関町から滋賀県へ向かう方が急な坂道でっさかいに
滋賀県から関町へ下りてくるより馬に乗せてもらう料金が3割高かったそうでっせ。
ほな~ 今日はこれで終わらしてもらいまっさ さいなら~
想像しながら食べれば美味しいでしょうね。
関宿では和菓子のお店が繁盛している感じでしたけど。
鈴鹿峠は三重県側が急な坂道だからツーリングしている方には楽しいんでしょうな。
鈴鹿峠をバイクで超えたことがあります。
50ccのバイクで。
お蕎麦屋さん、エエ感じですね。
JR関駅での列車の時間が迫っていて諦めました。
なにせ~ 1時間に1本しか走っていないローカル線なもんでね。
でも女性で仇討ちなんて当時は日本全国に
噂が広がったことでしょうな。
男子なら久留米藩へ復帰して家名が存続したんでしょうが
やはり江戸時代だから女性は差別されて気の毒ですね。
昔の人って、何もかも命がかかっていたのですね。
12月上旬の山陰なら松葉カニは出てくるでしょうが
紅葉はどうでしょう少し遅いかもしれませんよ。
関西の平地の紅葉は今週から色付きだしたようですけど。
北の大地は遅れましたが関西では平年並の紅葉になりそうですね。
こちらこそ、今月もよろしくね~♪
北海道ツアーは生憎の天候でしたが グルメを堪能されましたか
北海道は歴史的建造物も少なく貴方のように気軽に史跡巡りを楽しまれるのは羨ましい限りです
亀山市もピンチに置かれお気の毒ですね
血圧にムラがあり ご無沙汰していますが お許しを
やっと復帰しましたぁ。
今月も('-'*)ヨロシク♪お願いを致します。
そういえば取手も江戸時代は水戸街道の宿場町ですよね。
馬子唄の時代から鉄道の時代へ変わってたんでしょうね。
鈴鹿峠は当時の技術ではトンネルを掘ったり峠を越えることができず
鉄道は関町から伊賀上野を経て奈良の方へ施設せざるを得なかったようですけど。
次回に紹介しますがそれでも加太(かぶと)越えという難所で
SLは重連や後押しの機関車を付けて通過していましたんね。
亀山市までは名古屋から1時間少々なんですが
伊勢神宮や奈良や京都へ目が向くんでしょうな。
平安時代には朝廷の伊勢神宮へ向かう勅使の一行が
襲われたこともあるそうです。
伊賀から奈良への街道へ避ける旅人も多かったそうです。
年間を通したら雨が多いんですけどね。
やはり浮世絵の世界ではあいの土山の雨の方が絵になるんでしょうな。
土山宿は電車の便がないので隣の水口まで歩く必要があるので関町からは現在でも不便なコースですけど。
手前の伊賀上野辺は関西圏の感じがしますけど。
乗用車は第二名神へ流れているかもしれませんね。
私は平成の10年代に通過したので昔の鈴鹿峠は知りませんが
トラックのドライバーは鈴鹿を通らずに名阪国道から
国道163号線へ回る方が多いようですけど。
15代将軍慶喜の父親水戸の斉昭公が宿泊されたと言われています
斉昭公が読んだ歌碑もあります。
旧道の峠道をゆっくりと…馬上からの景観も素敵だろうな!
旧道は北海道でも観光資源として見直されていますね。
歴史遺産の少ない北海道では…
先人の苦労、開拓の苦労を偲ぶ足跡ですね。
馬子唄は北海道発は聞かれないですね。
いつも楽しませていただいています。
アアそれからコンデンサーが野ざらしにされ、
それが土地を汚し、海へ。。。。
そして魚介類を汚染していたのでした。
それを知らずに食べ、我々がPCB汚染したのでした。
話が変わりますが、東海道五十三次の広重の浮世絵は、
あいの土山の雨と庄野の白雨の二宿しか雨の絵はないですね。
版画で雨を描くには、細い線を沢山作る必要があったので、製作者は大変だったでしょうね。
しかもこの両宿の浮世絵はとても綺麗ですね。
鈴鹿峠は今のような綺麗なものではなく、片道1車線の結構危ない道路だったことを記憶しています。
親父の車でよく通りました。
今は第二名神があるので、通行量も減少しているでしょうね。