鉄ちゃん爺やの 独り言

鉄ちゃん爺やは大阪に住んでますので
画像で隠れた関西の名所も紹介します。

松尾芭蕉終焉の地 & 御堂筋のお話し

2015-02-01 19:47:22 | デジカメ散歩
大阪のメイン道路である御堂筋の名前が歴史上初めて
登場するのは大坂夏の陣の落人を詮索していた徳島藩が
「大坂御堂道で男1人を捕縛」と記録されてますんや。

1615年(元和元年)で丁度400年前になりまぁ。

当時の御堂筋は幅が3間(約5.4m)ぐらいの細い道路で
北御堂(津村別院)と南御堂(難波別院)の門前を
南北に結ぶ小道にすぎなかったようでっせ。

江戸時代には此のどちらかのお寺の鐘が聞こえる場所に
住むことが船場商人のステータスだったようでんな。

(現在の 御堂筋 瓦町交差点)(大阪市中央区瓦町3)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

1929年(昭和4年)に猛反対を押し切って当時の
関一(せきはじめ)大阪市長が御堂筋の拡張に着手。

当時は画像の処で小道が左手に屈折していたんだって。

画像右側の緑地帯辺りが幅3間(約5.4m)の旧御堂筋。

画像左側の緑地帯より内側に旧淀屋橋筋が有ったそうですわ。

旧御堂筋はここから南へ博労町通りまでだったようでんな。

逆に淀屋橋筋はここから曽根崎新地までだったとの記録。

(北御堂 浄土真宗本願寺派 津村別院)


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(南御堂 真宗大谷派 難波別院)


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北御堂も南御堂も1945年(昭和20年)の大阪大空襲で焼失
戦後に再建された建物なので文化財的には価値は薄いでっかな。

画像も門前と本堂の外観だけにしておきまひょ。

この両寺院は大阪市が幅3間(約5.4m)から新しい御堂筋
幅24間(約43.6m)に拡張するに際して敷地を無料で
提供したとの説があり道路の名前も御堂筋に決まったとの噂。

旧御堂筋は約1kmぐらいですが現在の御堂筋は約4kmでんな。

当時は飛行機の滑走路にでもするつもりかと市民に批判されたが
現在では昼間だけで約2万台~約4万台が通過する道路でおます。

同時に大阪市営地下鉄の10両編成の電車が停車できるホームで
梅田駅~心斎橋駅間を開通させてしまいましたんや。

80年が経過した現在も地下鉄のプラットホームを拡張しないで
使用できるとは、考えたら100年先を考えたプランでしたがな。

(南御堂の門前から 又一ビルを撮影)


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(旧大谷仏教会の外壁を保存)


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又一ビルの右側に写っている道路を「南久太郎町通り」と云いまぁ。

江戸時代に書かれた松尾芭蕉の終焉の地は南御堂門前で花屋を営む
花屋仁左衛門宅の奥に在った離れ座敷だったとされてますんや。

おそらく南久太郎町の通りに店は面していたと考えられまんな。

現在は御堂筋が拡張されて東側の側道の緑地帯に石碑だけがおます。

又一ビルから御堂筋を少しだけ緑地帯に渡った所になりまっせ。

(松尾芭蕉終焉の地 石碑)


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1934年(昭和9年)に大阪史跡調査会が推定したようですわ。

調査会は南久太郎町通りの北側に在ったと考えたようでんな。

郷土研究者の説では通りの南側に面していたとの説もおますんや。

だから石碑には此附近とあいまいな記載に成っているんでしょうな。

「此附近芭蕉翁終焉ノ地ト伝ふ」 と書かれてますんや。

(芭蕉翁終焉の地 石碑をズームアップ)


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松尾芭蕉は1694年(元禄7年)9月8日に伊賀の上野から
奈良市内で1泊してから、暗峠(くらがりとうげ)を越えて
大坂の生玉村にある酒堂(しゅどう)宅に草鞋を脱いだそうです。

この頃に芭蕉の門人で近江から移転した酒堂(しゃどう)と
古くからの大坂人である之道(しどう)が仲違していたので
その仲を融和する為に大坂へやって来る旅だったとのこと。

酒堂(しゃどう)は若いけど晩年の芭蕉が特に偏愛したとかで
大坂へやってきてからも之道(しどう)の門弟を引きぬいたり
我儘な振る舞いがあったとの説が残ってますんや。

酒堂(しゃどう)は晩年の芭蕉が唱えた「俳句の軽み」に
共鳴し芭蕉も彼の句をほめることも多かったとか。

芭蕉は二人を交えて連日に渡り大坂で句会を催してますな。

9月26日の有名な浮瀬亭に於いての句会では芭蕉は
こんな有名な発句を吟じてますな。

「此の道や 行く人なしに 秋の暮れ  芭蕉」

だけど同席した之道(しどう)と酒堂(しゃどう)は
会話を交わすこともなく、お互いの俳句のみが残されてます。

心配する芭蕉の心に反して二人の仲は氷解せず之堂(しどう)宅で
発病して9月29日に芝柏(しはく)宅での句会に出られず
発句だけは人を通じて送られたそうです。

心労と連日の句会の疲れで猛烈な下痢を発症したとされています。

「秋深し 隣は何を する人ぞ  芭蕉」

有名な句で皆さまもよくご存知だと思いますけど。

芭蕉が自分で詠んで書き記した最後の句と云われてまんな。

この9月29日から芭蕉は寝たきりになったそうですわ。

9月の晦日 10月の1日 10月2日 日を追って
芭蕉の病状が悪化し、之道(しどう)宅では手狭な為
花屋仁佐衛門宅の離れ座敷に10月3日に移動。

晩年にあれほど芭蕉に溺愛された酒堂(しゅどう)が何故か
芭蕉が発病してから、ご臨終にも葬儀にも参列してまへん。

享保時代まで生存しているのに、突然ながら旅に出たとか
重鎮の門人に嫌われて側に寄れなかったとかの説がおます。

(南御堂の境内 史跡 芭蕉の句碑)


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10月3日の夜半には芭蕉門下の重鎮である去来(きょらい)が
京都から駆け着け、近江から医者で門人の木節(もくせつ)も
夜明け前に到着し、芭蕉はすごく喜んで話をされたとのこと。

芭蕉の夜伽をしていた呑舟(どんしゅう)は之道(しどう)の
門弟で10月9日の夜半に呼ばれて句をしたためたとのこと。

世間では芭蕉の辞世の句と云われていますが、本当は芭蕉は
「病中吟」だと云い残してるのが、本当の気持だったようです。

「旅に病で 夢は枯野を かけめぐる」

「旅に病で 枯れ野を回る 旅ごころ」

辞世ではない、病中の所懐だとも述べられたとのこと。

去来の勧めで、夢は枯野を かけめぐる に決まったとか。

でも同席した門人からは、「かけまわる」と聞いたとの説もあり
南御堂の句碑では、「ゆめは枯野を かけまわる」と成ってますな。

(南御堂 芭蕉句碑の説明書き)


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10月11日には伊勢参りの途中で老師の重態を聞き及び
江戸から門人筆頭の宝井其角(きかく)が突然に来訪。

もう会えないと思ったと非常に喜んだとの記録があります。

この日、10月1日以来のお粥を食べたいと芭蕉は告げたとか。

芭蕉は美味しそうに食べられたが、残りは去来(きょらい)が
食べてから、こんな一句を残してるようですよ。

「病中の あまりすすりて 冬ごもり  去来」

10月12日には芭蕉は行水がしたいと告げたとか
門人で医者の木節(もくせつ)が懸命に止めるのを聞かず
行水の後は正座し、門人を枕元に近づけられたとのこと。

死後のことを各地の門人宛てに惟然(いぜん?)と
支考(しこう)に筆をとらせて遺言を書き記させたとか。

故郷の伊賀の兄には自ら筆を走らせたとも伝わってますな。

1694年(元禄7年)10月12日の申の刻(午後4時?)

芭蕉翁は花屋仁佐衛門の離れ座敷で次郎兵衛に抱かれ
其角(きかく)・去来(きょらい)・木節(もくせつ)
支考(しこう)・惟然(いぜん?)・之道(しどう)他
11名が老師の死を見守ったとされてますな。

その日の内に白木の長棺に遺体を納め舟で大川から淀川を
遡上し京都の伏見から徒歩で近江の義仲寺には遺言通り
翌10月13日に葬ったと記されていますね。

(芭蕉 病中吟の句碑) (南御堂の境内)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

「旅に病で ゆめは枯野を かけまわる  ばせを」

読み難いですが、このように刻まれているようでっせ。

この句碑は芭蕉の150回忌に当たり大坂の俳人である
超然(ちょうぜん)他の有志が1844年(天保14年)に
南御堂の本堂の南側庭園に立てたと言伝えられてます。

之道(しどう)は芭蕉死後の大坂では蕉風俳人としては
江戸や京都の門人からも信頼され評価もされたそうですよ。

やはり門弟と共に老師の死まで懸命の介護をしたことが
各地の蕉風一門の方々に感謝されたのが要因でっしゃろな。

例の芭蕉翁終焉の地の石碑の横に戦前から昭和57年まで
置かれていたとの説がありますが、鉄ちゃん爺やは何故か
確認してません、何度もこの辺りは歩いていたんですけど。

昭和の40年代には市内巡りの観光バスでも説明される
史跡だったとの話も残っているそうでんな。

松尾芭蕉はんは交通事故で亡くなりはったんでっか?

御堂筋の緑地帯に句碑と石碑が有ったのでこんな
笑い話が新聞に載っていたとかの話もおますんや。

ほんなら~ 今日はこれでお仕舞いでっせ、さいなら~






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26 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
何時もコメント有り難う~♪ (TAKAOSANへ)
2015-02-09 07:19:50
久しぶりのミナミを散策されたんですね。

グリコ看板の夜間ネオンは見物されましたかな?

私は大阪人だけどまだ見てないんですけど。
返信する
こんにちは (TAKAOSAN)
2015-02-08 11:48:13
北御堂、よく横を通っていたのですが、中に入ったことは無かったですね。
木曜日に大阪に行って来ました。
久々にミナミに行きました。
グリコの看板、綺麗になっていましたね。
返信する
何時もコメント有り難う~♪ (オババさんへ)
2015-02-07 13:10:31
昨日の緊急地震速報はテレビには出ましたが
私の携帯電話にはありませんでした。

大阪では震度1~2だとかで、揺れは感じませんでしたね。

場所が場所だけに南海地震かと瞬間は心配でしたが、そうではないので安心しました。

こちらこそ2月も宜しくお願い致します~♪
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毎度おおきに~♪ (小倉のヒデさんへ)
2015-02-07 13:06:59
OCN Cafe 時代の画像はCDに移し替える方が良さそうですね。

でも移し替えたらフォトフレンドの画像が消去されるようなので悩んで居るんですけど。

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何時もコメント有り難う~♪ (ユウ婆さまへ)
2015-02-07 13:02:04
やはり大坂で亡くなったんで大坂や京都や美濃や伊賀上野の門人が大半で
其角だけが伊勢参りの途中で急遽駆けつけたようですね。

因みに江戸では杉風や嵐雪が一周忌を別々に行っています。

芭蕉の死後は杉風や曾良など芭蕉の蕉風を続ける人々と
其角や嵐雪のように華やかな俳句を目指す人々に別れてしまったそうですね。
返信する
プチご無沙汰しています_(._.)_ (オババ)
2015-02-07 08:35:29
おはようございます~(^▽^)/

昨日の徳島県の地震!大きかったですね
余り地震の起きる場所で無いようなぁ・・・
南海トラフ…が頭を過りました

今年も暗いニュースから始まりましたが
何とか!少しでもいい方向へ進みます様に願います_(._.)_

明日はまた低気圧が・・・^^;
 でも気温が高いので全国的にの様でホッとしています

2月も('-'*)ヨロシク♪お願い致します。
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今晩はです。 (小倉のヒデ)
2015-02-05 22:51:36
今晩はやはり画像の件ですか。画像入れ過ぎないようにしないと重たくなるんでしょうね。
お互いに気を付けましょう。了解しました船は必ず
予約します 福岡のカラオケ大会の曲目変更
阿蘇の恋歌にしました。熊本地方の歌です。
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こんばんは (ユウ婆)
2015-02-05 21:25:16
遅くなりました
華やかな御堂筋の地名由来が 落人の捕縛地とは(@_@)

芭蕉は大阪で感染症と旅の疲れが死因と記憶にしていましたが 詳細なご案内でハッキリいたしました

蕉門十哲の一人である河合曾良が 枕元に同席出来なかったのはさぞかし残念だったことでしょう

お孫さん 一足先に咲いたことと思います
返信する
何時もコメント有り難う~♪ (くちかずこさんへ)
2015-02-05 18:59:03
芭蕉さんの臨終には門人が12名が立ち会い
死後は其の日の夜にに12名が
舟で京都の伏見を経由して近江の義仲寺まで
亡きがらと同行して翌日に埋葬したそうです。

芭蕉の死後に門人が多くの記録や芭蕉の足跡などを書物に残しています。

だけど逆に多くの方が書いているので食い違いが見られる記述も多いんですよ。

返信する
何時もコメント有り難う~♪ (小倉のヒデさんへ)
2015-02-05 18:50:45
デフラグは自動設定で毎週の日曜日の夜中にしているんですが
やはり画像を沢山と保存しすぎかもしれませんな。

置き手紙は拝見しましたよ、私も今週中にお返しに番号を入力しますからね。

返信する
芭蕉の最後、知らなかったです (くちかずこ)
2015-02-04 18:39:49
なんだか、旅人のイメージだったので、旅先で地味の他界されたかなって思っていました。
たくさんの人に看取られ、たくさんの記録も残っていたのですね。
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お早う御座います。 (小倉のヒデ)
2015-02-04 08:42:00
お早う御座います。置手紙にコメントしてます。見てね
パソコン固まるのはPCないがごたごたになりおなかいっぱいだからデフラグしてね。そしたら内部きれいになりPC
もある程度よくなります。自分も四国で高松の屋島で朝もやきりですね出たとき俳句つくりました。ユースホステルに
おいてきました。いまそのユースあるかないかわかりません。 春に4月よろしくね。 桜舞う 春の日差しに
幸がきたりし 春きたる。 俳句作りました。 下手な俳句でごめんチャイ。
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何時もコメント有り難う~♪ (abms4144さんへ)
2015-02-03 19:21:33
明治になって正岡子規が近代俳句を世に出すまでは
芭蕉の俳句が最高だとの時代が続きましたかな。

芭蕉の門人も「軽み」などの蕉風を重んじる方と批判的に見る方に別れたそうです。

大坂でも芭蕉派よりも談林派の方が優勢だったのが芭蕉の死後50年ぐらいで
芭蕉の蕉風が他を圧倒するようになってしまったそうです。
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何時もコメント有り難う~♪ (ひかるさんへ)
2015-02-03 18:55:44
あの又一ビルの外壁は昭和61年に大阪市景観建築奨励賞を受賞しています。

御堂筋に残る近代建築の一部として保存することにしたようですね。

あの又一ビルは婦人物アパレル会社の本社として現在も使用されていますよ。
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何時もコメント有り難う~♪ (isikazu62さんへ)
2015-02-03 18:44:49
小林一茶はこんな俳句を残してますよ。

「芭蕉さまの すねをかじって 夕涼み」

江戸時代後半には芭蕉の俳句が有名になりすぎてこんな皮肉な句を詠んだようですね。

信州の黒姫に小林一茶の史料館を訪ねたんですが生憎の休館日でした。

東日本大震災の起きる前の年だったかな?
返信する
何時もコメント有り難う~♪ (hide-san へ)
2015-02-03 18:36:52
芭蕉にはhide-sanは詳しいようですね。

支考は美濃の人で芭蕉の最後の旅に同行し
惟然と共に臨終に立ち会ったようですね。

支考は芭蕉の門人十哲の中では享保年間まで生きたようで
杉風と共に長命だったように書かれてました。
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何時もコメント有り難う~♪ (小倉のヒデさんへ)
2015-02-03 18:29:57
俳句は高校時代に大阪府の発表会に投稿して入選になったことが一度だけありますが
当時は俳句よりも短歌の方が好きでしたね。

優秀作品ではないので賞品や賞状などは貰えませんでしたけど。

今は文学的なことはまったく忘れてしまいました。



返信する
コメント有り難うございました (oyajisannさんへ)
2015-02-03 18:21:58
幼少の頃に枚方市に住んでおられたんですか。

芭蕉の終焉の地は俳句や文学に興味のある方は知っているかもしれませんが
大阪人でも芭蕉の終焉の地が何処なのかは殆んど知られていないようですよ。
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コメント有り難うございました (ytakei4 さんへ)
2015-02-03 18:17:24
5月17日に大阪市民を対象に大阪都構想の賛否を決める住民投票があります。

私は大阪府民なので資格はないんですけど。

4月の大阪市議会議員の選挙が最初の関門で
住民投票の行方が判断できるかも?

私は大阪都構想には賛成に近い考えですが自民・公明・民主・共産の
オール野党が反対なので厳しいかもしれませんね。

返信する
根なし草に (abms4144)
2015-02-03 10:46:17
芭蕉が詠まれたように
 日々旅にして旅を栖とする~旅に死する
 の生涯を終えましたね。

 明治の俳人も多けれど~まさに漂泊の人生
 映画やテレビでも見たいものです。
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Unknown (ひかる)
2015-02-02 21:42:56
旧大谷仏教会の外壁は、重厚な感じで素敵です。
芭蕉の俳句は小学4年の時の担任に、暗記させられクラスで競い合ったことを思い出します。
返信する
勘違い (isikazu62)
2015-02-02 16:28:37
くろださん こんにちは~

芭蕉の終焉の地は大阪でしたか!

芭蕉は弟子の曽良をお供に江戸から奥州方面へ
まではどうにか知っていますが

どうも俳句に疎いもので、小林一茶と勘違いしてしまいそうです。
返信する
かけまわる (hide-san)
2015-02-02 13:45:49
有名な句ですね。
病床に弟子の支孝を呼んで
「なをかけ廻る夢心地」の句もあり、
どちらが良いかと訊かれたので、
「この五文字、ずいぶん難しいことです」と答えた。
「廻る」の読みは、「かけ巡る」と浪化日記
(元禄七年十一月二十日の項に)にあるとのことで、
どうやら「めぐる」のようですね。
*浪化は弟子のひとり。

なお、「かけまわり」の句も別途あるようです。
「めぐり」が初案で、
推敲したのが「まわり」だったように岩波文庫に記されています。
返信する
こんにちは(^O^)/ (小倉のヒデ)
2015-02-02 11:22:23
こんにちはです。松尾 芭蕉ですね。
奥の細身、本で読んだことあります。学校時代にも
勉強しました。 俳句も好きで作ったりします。
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今晩は (oyajisann)
2015-02-01 21:36:44
今晩は私は幼稚園時代枚方で過ごした
のですが、御堂筋名前は知っててもな
じみがない。
芭蕉終焉の地とは知りませんでした。
2月もよろしくお願いします。
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こんばんは (ytakei4)
2015-02-01 19:56:29
大阪都構想どうなるのでしょうか?
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