安芸高田市(あきたかたし)を紹介しまひょ。
広島市や呉市それに尾道市や福山市などは
ご存じでも、安芸高田市は広島県民でなければ
地図で確認しないと、分からないでしょうな。
広島県の北部で中国山地の中央辺り高田郡と
呼ばれてましたが、平成16年3月1日に
6町が合併し安芸高田市と成りましたんや。
(安芸高田市 観光ガイド)

中心になるのが吉田町で、戦国時代に有名な
毛利元就(もうりもとなり)が生涯を過ごした
郡山城址が、ここ吉田町におますんや。
毛利元就は西国最大の戦国大名に成るんですが
織田信長や武田信玄や上杉謙信らと比較すると
歴史上では地味な感じがしまっしゃろ。
(毛利氏の 略系図)

鎌倉時代の創業期に事務方としてトップを担った
大江広元が毛利の荘(もりのそう)を拝領し
彼の四男である季光(すえみつ)が武士として
初めて毛利氏を名乗ったようでんな。
相模川の上流で現在の神奈川県厚木市になるんだって。
毛利季光は北条得宗家や相模の豪族三浦氏とも
婚姻関係にある、有力な鎌倉武士でしたんや。
宝治合戦と呼ばる北条家と三浦家との戦いで
妻の実家である三浦氏側に付いて一族が滅亡。
たまたま毛利季光の四男・毛利経光(すけみつ)が
越後の国に在住していた関係で、宝治合戦に参加せず
毛利家ではただ一人、生き残ったそうですわ。
毛利の荘は没収されたけど、毛利経光は鎌倉武士として
毛利と称する本貫の地名を名乗り続けたようでんな。
(郡山城・城下町 案内図)

毛利時親(もうりときちか)と呼ぶ方が越後の所領を
一族に譲り安芸の国は吉田の荘に移ったのは
丁度、南北朝の始まる1336年(建武3年)でした。
越後の国(現在の新潟県)は現在では米どころですが
当時は安芸の国の方が将来性が考えられたようでんな。
中国との交易など、時代は東国の鎌倉から都の京都や
瀬戸内海を経由した山陽道や九州へ変化していく時代。
(安芸 毛利一族 河合正治著)
そんな訳で、毛利時親(ときちか)が江戸時代に続く
長州の毛利家では初代とされているそうですわ。
親子が南朝・北朝に別れたり、応仁の乱で東軍から西軍に
鞍替えしたり、外敵との戦いに明け暮れる多難な時代を経て
一代の英雄である毛利元就(もうりもとなり)の登場でっせ。
前置きが長くなりましたが歴史民俗博物館へご案内しまひょ。
(安芸高田市 歴史民俗博物館)


鉄ちゃん爺やは8年ほど前に一度訪れたんでっけど
月曜日が休館で見学できなかったことがおました。
考えたら、普通は博物館などは月曜日が休館日でんな。
機会を見つけての、今回が二度目の訪問でおます。
当然ながら撮影は禁止でっけど、内緒で3枚だけ。
(安芸高田 歴史民俗博物館 展示場)



毛利元就(もうりもとなり)が兄と甥っ子の急死で
家督を継いだのが1523年(大永3年)のことでした。
吉田郷の村長さんから、スタートしたちゅうことでんな。
西の大内氏や北の尼子氏に挟まれて、二股膏薬のように
服従をしなければならないのは、小国の常でしたんや。
その大内氏や尼子氏を滅ぼして山陽山陰の7か国に合わせ
九州の一部を支配下に置く大国に導いたのが毛利元就で
戦乱に明け暮れながら、毛利家隆盛の48年間でおました。
1571年(元亀3年)に郡山城で生涯を終えられました。
(展示されている 鎧兜)




希望者は鎧兜の武者姿に変身して写真を写せるんだって。
鉄ちゃん爺やの老武者じゃ、さまにならないのでパス。
毛利家の家紋は「一文字 三つ星」と呼ぶそうでんな。
それじゃ郡山城の麓を散策しまひょかな。
(三矢の訓跡 石碑)


「一本の矢はたやすく折れるが、三本を束にすれば折りがたい」
死の直前に三人の息子を前にして一族の結束を説いた有名なお話。
江戸時代の書物に出てくる話で、真偽のほどは不明でおます。
長男の隆元は早く亡くなるも、孫の毛利輝元を叔父である
吉川元春と小早川隆景が協力し120万石を支えたんだって。
世間は吉川の「川」と小早川の「川」を両川と称え毛利本家を
末永く支え続けたので、明治維新まで毛利本家は安泰だったとか。
(郡山城址の石碑)



毛利家の祈願所であった清神社(すえじんじゃ)へ行きまひょ。
この神社には1325年(正中2年)の棟札が残ってるそうで
毛利家が越後から移ってくる前からある古い神社のようでっせ。
(清神社=すえじんじゃ)



この神社はサッカーJ1・サンフレッチェ広島が毎年この社殿で
メンバー全員で勝利の祈願をするのが年中行事に成っているんだって。
因みに、ここ安芸高田市にはトップメンバーの練習グランドが有る関係で
マザータウンと称して、交流を続けているようでっせ。
ご存じでしょうが、サンフレッチェの名前も日本語の「三」と
イタリヤ語の「フレッチェ=矢」から合成して作られてますよ。
(サンフレッチェ広島 ユニフォーム)



この神社の境内には樹齢約千年と言われる杉の大木がおます。
(清神社 境内の杉の大木)




(安芸高田市の マンホールの蓋)

この「百万一心」も毛利元就の伝説から出てますんや。
百万の字を書き崩して「一日一力」とすることで
皆で力を合わせれば何事も成し得るとの格言でっせ。
毛利元就が城の石垣を築く際に、従来は人柱を埋めたのを
「百万一心」と彫った石を人柱に変えて埋めたんだって。
(安芸高田市 市民ホール前)

国道54号線の交差点から郡山城址を眺めてみまひょ。
頂上まで登れば市街地が一望できるんだけど
広島市内へのバスが1時間に1便しかない。
残念ながら毛利元就のお墓や本丸跡はパスでんな。
(安芸高田市 郡山城址を望む)



山の中腹に毛利家の家紋が見えている辺りが、室町時代の
本丸跡で毛利元就の晩年には全山が砦になったようでっせ。
それじゃ~ バスで広島市内へ戻ることにしまひょ。
娘の自宅までは約30kmぐらい片道990円でした。
(広電バス 吉田線)

(広電バス 車中より撮影)


道路標識には「桂」という地名が見えてまっしゃろ。
明治維新に活躍した桂小五郎や明治の総理大臣桂太郎
彼らの先祖はこの吉田郷の桂という地区の小豪族。
模型で桂の右側には「福原城」も見えてまんな。
毛利家の重臣である「福原家」の出身地でんな。
蛇足ながら毛利元就の生母は福原広俊の娘なので
この福原城で誕生したと言われてるようでっせ。
(江の川 支流の可愛川)

中国地方の一番大きい川で、ここから三次市を経由して
島根県の江津市で日本海へ注ぐ大きな河川でっせ。
ここから10kmぐらい広島寄りに分水嶺がおます。
広島湾までは約40kmぐらいしかおまへんので
本州で太平洋側(瀬戸内海)に一番接近している分水嶺。
逆に日本海の島根県まで、およそ150kmぐらいかな?
標高も150mぐらいの見落とすような村落でっせ。
途中下車したら1時間待ちやから通過しまっせ。
(安芸高田市 上根の分水嶺)


二枚目の画像で前方から峠を登ってくる車が見えまっしゃろ。
あそこの登り切った処が分水嶺になってまんねんで。
片峠で登り切ったら何のへんてつもない集落の平坦地。
向こう側は広島湾に注ぐ太田川支流の根谷川でんな。
上根集落は日本海に流れる江の川の支流になりまっせ。
(分水嶺を越えて 広島市安佐北区へ)



最後に安芸高田市に残るお神楽と子供歌舞伎を3枚
貼り付けてお仕舞にしまっさ。
(安芸高田市の お神楽)


(安芸高田市の 子供歌舞伎)

次回は広島県の呉市の音戸の瀬戸を紹介しまっせ。
長くなりましたので、今日はこれで、さいなら~♪
広島市や呉市それに尾道市や福山市などは
ご存じでも、安芸高田市は広島県民でなければ
地図で確認しないと、分からないでしょうな。
広島県の北部で中国山地の中央辺り高田郡と
呼ばれてましたが、平成16年3月1日に
6町が合併し安芸高田市と成りましたんや。
(安芸高田市 観光ガイド)

中心になるのが吉田町で、戦国時代に有名な
毛利元就(もうりもとなり)が生涯を過ごした
郡山城址が、ここ吉田町におますんや。
毛利元就は西国最大の戦国大名に成るんですが
織田信長や武田信玄や上杉謙信らと比較すると
歴史上では地味な感じがしまっしゃろ。
(毛利氏の 略系図)

鎌倉時代の創業期に事務方としてトップを担った
大江広元が毛利の荘(もりのそう)を拝領し
彼の四男である季光(すえみつ)が武士として
初めて毛利氏を名乗ったようでんな。
相模川の上流で現在の神奈川県厚木市になるんだって。
毛利季光は北条得宗家や相模の豪族三浦氏とも
婚姻関係にある、有力な鎌倉武士でしたんや。
宝治合戦と呼ばる北条家と三浦家との戦いで
妻の実家である三浦氏側に付いて一族が滅亡。
たまたま毛利季光の四男・毛利経光(すけみつ)が
越後の国に在住していた関係で、宝治合戦に参加せず
毛利家ではただ一人、生き残ったそうですわ。
毛利の荘は没収されたけど、毛利経光は鎌倉武士として
毛利と称する本貫の地名を名乗り続けたようでんな。
(郡山城・城下町 案内図)

毛利時親(もうりときちか)と呼ぶ方が越後の所領を
一族に譲り安芸の国は吉田の荘に移ったのは
丁度、南北朝の始まる1336年(建武3年)でした。
越後の国(現在の新潟県)は現在では米どころですが
当時は安芸の国の方が将来性が考えられたようでんな。
中国との交易など、時代は東国の鎌倉から都の京都や
瀬戸内海を経由した山陽道や九州へ変化していく時代。
(安芸 毛利一族 河合正治著)

そんな訳で、毛利時親(ときちか)が江戸時代に続く
長州の毛利家では初代とされているそうですわ。
親子が南朝・北朝に別れたり、応仁の乱で東軍から西軍に
鞍替えしたり、外敵との戦いに明け暮れる多難な時代を経て
一代の英雄である毛利元就(もうりもとなり)の登場でっせ。
前置きが長くなりましたが歴史民俗博物館へご案内しまひょ。
(安芸高田市 歴史民俗博物館)


鉄ちゃん爺やは8年ほど前に一度訪れたんでっけど
月曜日が休館で見学できなかったことがおました。
考えたら、普通は博物館などは月曜日が休館日でんな。
機会を見つけての、今回が二度目の訪問でおます。
当然ながら撮影は禁止でっけど、内緒で3枚だけ。
(安芸高田 歴史民俗博物館 展示場)



毛利元就(もうりもとなり)が兄と甥っ子の急死で
家督を継いだのが1523年(大永3年)のことでした。
吉田郷の村長さんから、スタートしたちゅうことでんな。
西の大内氏や北の尼子氏に挟まれて、二股膏薬のように
服従をしなければならないのは、小国の常でしたんや。
その大内氏や尼子氏を滅ぼして山陽山陰の7か国に合わせ
九州の一部を支配下に置く大国に導いたのが毛利元就で
戦乱に明け暮れながら、毛利家隆盛の48年間でおました。
1571年(元亀3年)に郡山城で生涯を終えられました。
(展示されている 鎧兜)




希望者は鎧兜の武者姿に変身して写真を写せるんだって。
鉄ちゃん爺やの老武者じゃ、さまにならないのでパス。
毛利家の家紋は「一文字 三つ星」と呼ぶそうでんな。
それじゃ郡山城の麓を散策しまひょかな。
(三矢の訓跡 石碑)


「一本の矢はたやすく折れるが、三本を束にすれば折りがたい」
死の直前に三人の息子を前にして一族の結束を説いた有名なお話。
江戸時代の書物に出てくる話で、真偽のほどは不明でおます。
長男の隆元は早く亡くなるも、孫の毛利輝元を叔父である
吉川元春と小早川隆景が協力し120万石を支えたんだって。
世間は吉川の「川」と小早川の「川」を両川と称え毛利本家を
末永く支え続けたので、明治維新まで毛利本家は安泰だったとか。
(郡山城址の石碑)



毛利家の祈願所であった清神社(すえじんじゃ)へ行きまひょ。
この神社には1325年(正中2年)の棟札が残ってるそうで
毛利家が越後から移ってくる前からある古い神社のようでっせ。
(清神社=すえじんじゃ)



この神社はサッカーJ1・サンフレッチェ広島が毎年この社殿で
メンバー全員で勝利の祈願をするのが年中行事に成っているんだって。
因みに、ここ安芸高田市にはトップメンバーの練習グランドが有る関係で
マザータウンと称して、交流を続けているようでっせ。
ご存じでしょうが、サンフレッチェの名前も日本語の「三」と
イタリヤ語の「フレッチェ=矢」から合成して作られてますよ。
(サンフレッチェ広島 ユニフォーム)



この神社の境内には樹齢約千年と言われる杉の大木がおます。
(清神社 境内の杉の大木)




(安芸高田市の マンホールの蓋)

この「百万一心」も毛利元就の伝説から出てますんや。
百万の字を書き崩して「一日一力」とすることで
皆で力を合わせれば何事も成し得るとの格言でっせ。
毛利元就が城の石垣を築く際に、従来は人柱を埋めたのを
「百万一心」と彫った石を人柱に変えて埋めたんだって。
(安芸高田市 市民ホール前)

国道54号線の交差点から郡山城址を眺めてみまひょ。
頂上まで登れば市街地が一望できるんだけど
広島市内へのバスが1時間に1便しかない。
残念ながら毛利元就のお墓や本丸跡はパスでんな。
(安芸高田市 郡山城址を望む)



山の中腹に毛利家の家紋が見えている辺りが、室町時代の
本丸跡で毛利元就の晩年には全山が砦になったようでっせ。
それじゃ~ バスで広島市内へ戻ることにしまひょ。
娘の自宅までは約30kmぐらい片道990円でした。
(広電バス 吉田線)

(広電バス 車中より撮影)


道路標識には「桂」という地名が見えてまっしゃろ。
明治維新に活躍した桂小五郎や明治の総理大臣桂太郎
彼らの先祖はこの吉田郷の桂という地区の小豪族。
模型で桂の右側には「福原城」も見えてまんな。
毛利家の重臣である「福原家」の出身地でんな。
蛇足ながら毛利元就の生母は福原広俊の娘なので
この福原城で誕生したと言われてるようでっせ。
(江の川 支流の可愛川)

中国地方の一番大きい川で、ここから三次市を経由して
島根県の江津市で日本海へ注ぐ大きな河川でっせ。
ここから10kmぐらい広島寄りに分水嶺がおます。
広島湾までは約40kmぐらいしかおまへんので
本州で太平洋側(瀬戸内海)に一番接近している分水嶺。
逆に日本海の島根県まで、およそ150kmぐらいかな?
標高も150mぐらいの見落とすような村落でっせ。
途中下車したら1時間待ちやから通過しまっせ。
(安芸高田市 上根の分水嶺)


二枚目の画像で前方から峠を登ってくる車が見えまっしゃろ。
あそこの登り切った処が分水嶺になってまんねんで。
片峠で登り切ったら何のへんてつもない集落の平坦地。
向こう側は広島湾に注ぐ太田川支流の根谷川でんな。
上根集落は日本海に流れる江の川の支流になりまっせ。
(分水嶺を越えて 広島市安佐北区へ)



最後に安芸高田市に残るお神楽と子供歌舞伎を3枚
貼り付けてお仕舞にしまっさ。
(安芸高田市の お神楽)


(安芸高田市の 子供歌舞伎)

次回は広島県の呉市の音戸の瀬戸を紹介しまっせ。
長くなりましたので、今日はこれで、さいなら~♪
どなたかのブログで同じ場所の紹介を読んだ記憶があります。
神楽門前湯治村には、義母とサメ氏と神楽を見に行きましたが。
くちこの祖父は、毛利の血筋で、家紋は、同じ、毛利の家紋でしたよ。
くちこの従兄弟の代で終わりかな?
祖父は、馬に乗って付き人と学校に通ったそうでしたが。
今や・・・
自家用車がないと行けないようですね。
娘婿が車を山口の方へ持って行ったので
今回はバスか電車でしか動けませんでした。
娘婿とは4年ぶりに会って日曜日の夜に
飲んで色々の話が弾みましたね。
毛利元就は筆まめだったそうですね~
あと知っているのは石見銀山くらいです。
それくらい他浮かんできません。
市町村統合になってとんとわからなくなりました。
安芸高田市もちろん何処状態です。
毛利、山口でなく広島ってのは知ってましたが、その前
は何と神奈川厚木方面の武士だったんですね。
とても勉強になりました。
3月もよろしくお願いします。
歴史は難しいですね、好きだけど毛利家は広島ですね。y山口県の方へ流れて行ったのかな。確か子孫がいると
聴いたこともありますが、定かではありません毛利藩士は
凄いですから。歴史教科書あるので見て見ます。
鉄ちゃんn爺やさんは詳しいですね。今日も歌いに行ってました 明日は仕事おやすみ夜又歌いに行く予定です。
本当の争いだったかもしれませんね。
毛利元就は祖父や先祖達が京都の政争に
巻き込まれて苦労したので
中国地方や北九州に絞って統治したようです。
本貫の地名を名乗り続けたようです。
広島県の備後地方にも同じ相模から移動した
山内須藤氏や安芸の国の守護職武田氏や
武蔵からやってきた熊谷氏などが
歴史上に登場していますね。
曖昧な行動で参戦しませんでした。
毛利輝元が総大将になりながら出陣せず
120万石から防長の32万石に減らされ
江戸時代を生き延びたようですね。
私なら豊臣秀頼を伴って関が原へ出陣して
戦って欲しかったと思います。
そうしたら福島正則や黒田長政ほか
豊臣系の大名は戦えなかったと考えています。
戦国時代は日本は自分の土地を広めようと必死になってたんでしょうね。だから平家も西の方へ追いやられたんですね。安徳天皇は壇ノ浦戦いで海に沈んだといわてていますが、源氏のある武将が助けて四国の祖谷渓へ行き
23歳まで生きたと言われています。平家物語は読んで知っています祖谷渓警告を燈るときバスの中で放送されてました。自分も図書館などで調べて見たら
実際に祖谷渓で23歳まで暮らしていたことを知りました 日本歴史はひもを解いていけば面白いですね
小倉は雨で暖かいです室内19度エアコン入りません。今月も宜しくです。 カラオケは今月から毎週1階のみに変更です後はお天気の時はお昼仕事終えて
自転車移動4時間ぐらいします、体力作りです。
コメント有難う御座いました。
渋いところに行かれていますね。
音戸の瀬戸、楽しみにしています。
妻の実家のすぐ近くですから。
実は第二音戸大橋、まだ見ていません。