なかなか扱いづらいもののひとつに
怒りというものがある。
怒りのドラマを(おそらく)続けてきた家系に生まれると
子供にも怒りの感情が強く植えつけられる。
それは抑圧という形をとることもあるし、
暴発という形をとることもあるし、
多くの場合表裏一体である。
怒りを子供にぶつけてきた親に怒りが向くよりも
他者にぶつける形で発散される場合も多い。
自分にぶつけて自傷的になることも少なくない。
怒りのドラマは繰り返される。
親から子へ。
自分から他者へ。
どこかで自覚的にストップしない限り、
他者だけでなく、本人も
その繰り返されてきたドラマの犠牲者になる。
犠牲者のロールをとる以上は、
被害者でもあり続ける。
そしてまた、被害者は加害者になることも
往々にしてある。
しかし、
それが「繰り返されてきたドラマ」だと気づくことができたら?
古いドラマを繰り返すのか
被害者や犠牲者のロールをやめることを決意するのかは
本人次第と思う。
そして、怒り自体は
ひとつのエネルギーであり
怒りが何かを立ち上げたり、
生み出したりするエネルギー源になることは
歴史的に見てもつまびらかなことである。
怒りを自覚できること。
怒りの裏に何があるのかをよく見ること。
怒りを蓄積して恨みに変えないこと。
怒りを感情としてではなく、エネルギーとしていくこと。
感情としての怒りと、エネルギーとしての怒りを
分けて考えていくこと。
それが今のような時代には
とても大事なことではないのか、と思います。