日常の中で思うに任せずぼんやりとしていると
自分には何もない、と思うことがある。
しかし踊っている時と自然の中にいるときは、
自分には何もないが全てがある
(言語化すると陳腐だが)と感じていることがある。
そこでは「自我の檻」の中にいないからだ。
境界線がほどけていき、
世界とともにそこにあり、
世界とともに呼吸しているような感じになる。
そこの一部になる感覚。
自分というものも消える。
踊ることは子どもの頃、
しゃがんでアリの行列ををじっと見ていたことや
タンポポを摘んだりしたのと
同じ行為だと思う。
無心であること。
特別な身体を「作り込んで」することではなく、
自分のなすがまま、あるがままをでいてみること。
それをただ感じてみる、ということだ。
だから誰もが踊ればいいのに、とつくづく思う。
だいぶ昔のことだがWSに初めて来た方が
身体ほぐしなど一通り終えてムーブメントの時間に入ったら、
最後まで1時間ほど座ったまま動かずにいた。
終わってから「世界一周をしていた」、と話された。
こういうことが今でも起こる。とても面白いことだ。
身体とイメージが結びつく時空。
「ここ」ではないところで。
同時に「今ここ」で。
ただし、こういうことが起こるにはウォームアップが必要で、
それがいつも私が行う身体ほぐしなのだ。
これはシンプルながら非常に奥深くを掘り起こす。
ある時も、ムーブメントの30分ほどを
微動だにせず立っていた方がいて
おそらく樹になっているのだろうと思ったが、
そうだったとのこと。
なんの身体訓練もしていない人が、
微動だにせずただ立つ、立ち続けるというのは
本当に難しい。
空になるか、何かになっているか、
ひたすら重さやバランスを体感しているか。
そのどれかの状態になっている時にそれは持続する。
これでいいのか?どうしたらいいのか?正しいやり方か?
これで合っているのか?と思考のジャッジが入った途端
保たれていた平衡は崩れる。
踊る、ということは
「そのままに在れるか」ということでもあるし、
「自分ではない何かになること」でもある。
それはもう物質対非物質、
みたいなこともすっ飛ばす。
どちらでもあり、どちらでもないのだ。
それをもっと多くの人に体験していただければと思う。
「ノンデュアリティ」に近いのかもしれない。
人の前で動くことを恐れる人もいるわけで
それは見られること=ジャッジされることになっているだけで
その人の中の問題であるだけだし
何かを掴める瞬間というのはとても無意識的なものであって
動きに集中している時
動きそのものになっている時
あれ?今のはなんだ?みたいな体験をする。
それを言語化したり、誰かに指摘されたりして
自分の意識と結びついた時に腑に落ちる、ということが起きる。
そこには世界と自分(自我ではない。身体もエネルギーもひっくるめた、存在としての)
の関係しかない。
肉体というこの不自由なもの、
そしてその重さと不自由さを知ること
不自由を通してしかでき得ない
その崇高さや不思議さにこうべを垂れない限りは
(あるいはsurrender)
重さに”制限”されない世界、
新たな世界に
新たな世界に
触れることは始まらない。
パラドックスのようだけれど、そうとしか言えない。
しかし、
世界と自分との新たな地平が広がってくると
世界との関わり方が変わってくるのだ。
それこそが私たち自身がなんども変容を繰り返し
手に入れるべきものだ。
(写真は先日行った山の中の聖地であります。
恐れを感じるほどに静謐な空気だった。)
(写真は先日行った山の中の聖地であります。
恐れを感じるほどに静謐な空気だった。)
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