汀夏子さんのインタビュー記事が朝日新聞に出ています。昨日で五回目、木曜の記事から読みだしたから、前の三回も見直してみたいと思うんですが、どうして気になったかといえば、汀さんが大阪女学院を途中でやめて、宝塚音楽学校に行かれたのだというのを知ったからです。
そして、河合真美江さんという記者さんが聞き取った言葉をそのまま載せているので、少しだけおもしろいなと思ったからでした。
汀さんは70いくつだそうで、うちのオカンとそんなに変わらない年齢の方でした、少し若いけど……。
大阪女学院に通ったおられた時、環状線の玉造のホームで先輩に声をかけられたそうです。
「あんた、願書出したよね。げた箱に名前あるのに、けえへんの?」と言われたそうです。
げた箱は、宝塚音楽学校の別科にあったそうで、別科があるということは、本科があるわけで、別科は本科に至るまでの予備コースみたいなものでしょうか。そこである程度の技量を身につけて、本科に上がっていくシステムだったんでしょう。
震えました。げた箱に宮本順子(本名)の名前がもうあるの? 宝塚はあきらめようと思っていたのに、血が燃え上がりました。げた箱が、私を待っている。
ということで、高校の授業の後、週5日、夜間にバレエや日舞、声楽を学ぶことになったそうです。
進学したいところの予備校みたいなものだから、そこで学んで進学する、今では当たり前ではあるけれど、大変だったことでしよう。
毎日、家とは逆方向の電車に乗るんです。それをホームで見ていた同級生たちに、「不良や。どこ行くねん」って聞かれたこともありました。
宝塚のことは学校のみんなには言ってなかった。落ちたらやばいから。
そういう高校生活を送ってたんですね。そりゃ、まわりの子は毎日逆方向の電車に乗る子は、何か変なことしてるなあとは思ったかもしれません。しかも、その理由はみんなに教えずに、自分の中だけで隠し持っていたわけですから、しんどかったかなあ。
まあ、高校の先輩も一緒に通ってたんだと思いますけど、仲間であり、ライバルでもあったわけで、言うに言われぬ複雑な気持ちを隠し持っていたんでしょうか。女の子たちの憧れの世界の一つでもあったわけですから。
いつも寝不足で、学校(たぶん高校?)の授業中によく寝ていました。試験は一夜漬けでなんとか書いたけど、終わったらすぐに忘れる。瞬発力と集中力やろね。
あのころは宝塚に入りたい、男役になりたい一心でした。若いってそんなもん。目標があるってすごいパワーやと思います。
というんで、朝から大阪女学院の子らの制服を描いてみました。懐かしかった。といっても、そこに通う女の子が好きだったというのではありません。
ここの制服の子らとは全く縁がありませんでした。ただ、見たらドキッというのか、みんな賢そうに見えて、お嬢さんに見えて、私には遠い憧れの世界でした。そして、そのまま遠ざかっていった世界でした。
伝統のある学校だから、今も同じ制服のようです。うちの近所の私立の学校は、コロコロ同じような制服をマイナーチェンジばかりしているけれど、そういうのとは違うのかなあ。ネットで見てみたら、今の時代を反映して、ズボンもちゃんとあるようです。どれだけの子がズボンを履いてるのかわからないけれど、女子はスカートと決めつけるのは不自然なんだろうな。
第一、彼女たちの日常生活も、スカートは外に行く時だけで、家ではズボンなんでしょう。その方が自然だし、あたり前なんだろうな。