小学生の女の子が、まわりの大人たちに助けて、お父さんにいじめられている、と必死の思いで訴え、学校関係者も一時は何とかしなくてはと思い、行動もしたんでしょうけど、父親に女の子の書いたのを見せろと迫られ、一時は拒否したものの、何度も請求されて、これでいいのかと思いつつ、コピーを渡してしまった。
さあ、それからは前にもまして父親の恐ろしい口封じが始まったことでしょう。大人たちは、心配はしたものの、結局は壁にはなれなくて、そのまま女の子を見殺しにした形になりました。
いじめを見つけたら、先生たちに相談しなさい、と言っていたのではなかったんですか?
何人かの人は胸を痛め、何とかしてあげなくてはと思ったことでしょう。でも、思っているだけでは何にもならない。大人たちが心配している間に、女の子の命はみるみる削られていったことでしょう。
詳しいことは知らないけど、虐待をする親って、それが当たり前みたいにして、どんどん暴力的な愛なのか、教育なのか、可愛さ余って憎さ百倍なのか、とことん行くとこまで行かないとやめられないようです。
それはもう予想のついたことでしょう。なのに、止められなかった。
父親は、もちろん殺す気はなかったでしょうけど、それが命を終わらせることになるなんて、想像もつかなかったのでしょう。愛であり、教育であり、親としての怒りであったんでしょう。けれども、それは許されるものではない。でも、これからも日本のどこかで、着実に積み重なっていく子どもたちの死となるのでしょう。
それが予想された時点で、親としての権利もすべてはく奪するくらいの法律がないことには、子どもたちは守れないし、子どもが訴えた時にはすでに時遅しだったのかもしれない。
茨城で殺された女子大生。どうしてあんな男にだまされたのか。それが納得がいかないけれど、あんな男に限って人をだます作戦を練りに練って、ワナをしかけまくっているのでしょう。女子大生がやってきたとき、あの男はシメシメと喜んで、何を考えていたのでしょう。
ただ自分のみだらな幻想ばかりふくらませていたのかもしれない。人間なんだから、あんな男を見れば、すぐに拒否するのは当たり前で、男は拒否されたら、強引に迫るのは当たり前で、最悪の場合は、命を奪うことは当然ありうることです。
でも、あの男は、そんな気はなかったとでも平気で言い張ることでしょう。そして、拒否されたから自分の言いなりになる形を模索したら、女の人は息をしていなかった。それで、近所に穴を掘って埋めた。
なんて、想像力がないんでしょう。自分が、とんでもない殺人者であるという意識はなかったのか。
自分のみだらで、いじけていて、卑屈で、誇大妄想で、変なことだけは上手で、性犯罪も起こしているとんでもない自分というのを見つめたことはなかったんだろうか。
何となくわかっていたはずだけど、それでも、ワナにかかった女の子を、最初は殺すつもりはなかったと言うのかな。醜い自分の心を見つめられなかった男の敗北であり、そんな男を今まで許していた私たちの社会の敗北です。
私たちの社会には、そういう人々がたくさんいる。そういう人を社会参加もさせないで、ウツウツと彼らのマグマがたまるまで放置させておいて、爆発してから、男を責めるなんて、なんて無責任なんだろう。
私たちの社会そのものの醜さが噴き出てしまった事件なのかもしれない。
そして、日本のエリートたちのいい加減な調査。あの人たちは、自分たちが何か号令をかけたら、下々のものは必死になって数字を持ってくるとでも思っているんでしょう。自分たちは絶対で、その自分たちを統括するのは政府のえらいさんたちだけで、その人たちがニコニコしていれば、あとは野となれ山となれ、そういう意識なんでしょう。責任感は政府の偉い人たちには感じているだろうけど、一般の庶民には何も感じていないでしょう。
全く責任はないし、政府のエライお方が、大変だと言わない限り、全く自分たちには関係ないと思っている。
私たちは、そういう社会に住んでいるんですね。
自分のことは自分で守ろう。だれも助けてくれないし、助けて! と声を上げても、適当に放置されるばかりです。ああ、悔しい。どうしたらいいんだ。
私は、少しでも、苦しんでいる人がいたら、精一杯やりたいです。自分を守りつつ、できる限りのことをしていきたいです。まあ、たいしたことはできないけど、まわりにそんな人がいたら、何とかしてあげたいです。