★ 連休最後の日の朝はくもりです。これから雨でも降るのかな。
雨が降っても、すごくいいお天気でも、ずっと家にこもっているのは同じだから、もうどっちだっていいやという感じです。だから、というわけではないけど、立ったり座ったりする度に膝がコキッというのには参ります。こんなに膝が弱くなるなんて、それをどう乗り越えればいいのか、筋肉なんだろうな。
関節のためということでゼリーは食べてますけど、役に立つの? とにかく、先ず運動かな。何も動いてないもん。そうだね。動くことにします。
三ケ月放置したままのメモがあったので、とりあえずこちらを書きます。三ヶ月前、蕪村さんのふるさとを訪ねて、自分の中に蕪村気分を盛り上がらせていたけど、もう情熱は冷めたの?
いえ、あまりに浅くて、イヤになるのは確かですけど、好きは好きだし、蕪村さんはいろんな世界を見せてくれるから、好きなんですよ。芭蕉さんよりも日本や中国の歴史を学んでるし、それをうまくかみ砕いてくれてるから、そこから視界が開けるんです。芭蕉さんのは教養主義で、何だか偉そうな感じがして、お勉強させられている感じです。俳句を読んで、お勉強もさせられてって、何かシンドイですもんね。
蕪村さんは、もっと軽い感じです。奈良に遊びに行ったのかな。仕事かな?
春雨やゆるい下駄貸す奈良の宿
今も昔も観光客の多い奈良の宿の下駄。鼻緒はゆるんでいて、外に出るにも頼りない感じがする。春雨のなまぬるい季節感とゆるい下駄の取り合わせ。
そうなんですよ。これが京都だったら、そんなことはないかもしれないし、京都では蕪村さんは生活人だから、宿泊するということもなかったでしょう。大坂には泊まれないし、いつも借りてきたネコみたいな気分。奈良は、少しだらしないというのか、のんびりしている。ガツガツしていない。
春雨と下駄、この組み合わせに目をつけるところがセンスなんです。ボクだったら、「春雨や奈良のお宿で引きこもり」とか、「春雨や外に出られず人を待つ」とか、つい自分が「困ってるんだよ。何だかションボリするんだよ」というのを訴えるでしょう。
だからダメなんです。そういう気分をサラリと流して、旅館の下駄の頼りなさを取り上げて感情をやんわり伝える。これができなきゃ! そして、細かなことでガチャガチャ言わないようにしなきゃ。俳句って難しいです。
春雨に下駄買ふ初瀬の法師かな
春雨の一日、ふとちびた下駄のことを思い出して、法師が下駄を買いに出かけたというドラマを作り出しています。やはり、自分・オレじゃなくて人なんです。私たちは長年の教育の成果で、自分というものを出しなさい。自分がどう考えたかを述べなさい。というふうに仕込まれてきました。俳句もそういう風にして十七音で自己主張したくなります。
そんなんじゃなくて、自分・オレも時には出てきてもいいけど、ドラマや風景を広げるには、人の物語を取り出さなくちゃいけないんだよ。そういう見本ですね。
長谷寺のお坊さんは、誰かにプレゼントするために下駄を買ってるのではないんですよ。自分のために、下駄が必要だと判断した。それを蕪村さんはちゃんとキャッチしている。ボクにそれくらい他人を見つめる視点がありますか。
コロナの嵐が過ぎたら、また外に出歩くと思うんだけど、どれくらい他人をあたたかく見られるか、少し心配になります。自分のことばかり考えてて、人は怖い存在に思えてしまう。ボクの生き方が問われています。
どれだけ人と、ささやかで、相手のことを考えながら、やさしく付き合えるのか、それを改めて実践しないといけない。引きこもりオッサンのくせに、生意気なこと書いてます。それができなきゃ、何かオッサンとしての価値がないなあと思います。頑張ります! どれだけ人の物語をすくい取ることができるか、それでメシ食わなきゃ!
雪解(ゆきどけ)や妹(いも)が炬燵(こたつ)に足袋(たび)かたし
「かたし」とは、片一方。片割れ。という意味だそうです。強い、とかいう意味ではないみたい。江戸時代のコタツは、電気ではないから炭ですね。それで暖めて、それを何かフトンみたいなもので覆ってある。とにかく、その上はホカホカするから、濡れたものを乾かすのには適切である。
ふと見たら、女物の足袋が片一方だけ、コタツの上に置かれていた。あまりお上品な行いではないかもしれない。でも、濡れたから、それを乾かすために仕方なくしたことであるみたい。
そして、この女の人は、雪解け道のぬかるんだところをわざわざ来てくれたみたいです。それとも、出かけて帰ってきたんだろうか。とにかく、外に出て濡れてしまった女物の足袋がひとつ。
もうこれで、いろいろと想像が膨らむのです。この足袋をはいてた女の人は、どこにいるの? 濡れた足袋を脱いで、何してるの? 私とはどういう関係? 人々の邪心を揺り動かす少し色っぽい作品です。
こんなこともできてしまう。
ボクは想像力がたくましくないから、「妹さんでしょ。お兄ちゃん、やさしいね」と流してしまうけど、エッチな高校生だったら、
こりゃ、「妹(いも)」というのは兄妹ではなくて、恋人という意味でも使うんだから、こりゃ、彼女でしょ、そして、これから愛の世界が始まるんだ! うっ、ブチ!
と鼻血でも出すでしょう。
たったの十七音で世界が広がります。
あれ? 「が」って、俳句の世界では語感が強すぎて使っちゃいけない「助詞」ではなかったっけ? 「彼女が、コタツに足袋を片いっぽ置きっぱなしにしてたんだよ」というのを伝えるので、「妹がコタツ」にしたというわけですか。
「妹のコタツ」は、妹さんの所有するコタツみたいで変だし、「妹はコタツに」だとイメージとして弱いし、ここは一発「が」でいくかと、「妹がコタツに」にしたんですね。助詞の選択って、ムズカシイです。