故郷に帰る女性のフリをして、蕪村さんは故郷を眺めています。ネコはミャーミャー相手を呼んでいました。昔はそういうのをよく聞きました。近ごろは、ネコもおうちで引きこもりです。声もあげられないし、声をあげても、それこそ応える相手もいないでしょう。去勢もされて、どんな子が好きなのか、自分でもわからなくなっているのかも……。何だかかわいそうです。
つい何十年か前だったら、野良猫たちものんきに恋を謳歌することができました。でも、現在の都会ではそんなことは許されません。うるさいと思ったら、すぐに通報しちゃうし、すぐに保健所に捕まえさせるでしょう。
みんな家の中でチンマリと閉じこもってないと、すぐに防犯カメラに映し出され、不審者だと判断されてしまう。ただ歩いてても、それだけで何かの疑いをかけられそうです。
ネコも人間も生きにくい世の中です。
〇呼雛籬外鷄 籬外草滿地
雛(ひな)を呼ぶ籬外(りがい)の鷄(とり)
籬外(りがい)草(は)地に満つ
雛飛欲越籬 籬高墮三四
雛(ひな)飛びて籬(まがき)を越えんと欲す
籬(まがき)高うして堕(お)つること三四
ネコの次は、ニワトリでした。家々の仕切りの垣根があります。たいていニワトリは自分たちの飼い主の生活スペースの範囲内で生きていたことでしょう。散歩することはなくて、群れでなんだかんだおしゃべりしているのが楽しいだろうし、彼ら・彼女らのこだわりの食べ物みたいなのがあったと思うな。うん、この黄色い砂なんかおいしい! とか、しゃべってそうです。
そういう時には、ニワトリたちは、大発見したみたいにえらそうなフリをしている気がします。手も羽も動かさないし、声も出さなくて、目と態度だけで「エッヘン」というフリができるんだから、ニワトリというのもおもしろい生き物です。
ヒナドリたちは、守られている気分があるから、ついつい生活スペースをはみ出てしまうこともあるでしょう。そうしたら、親鳥さんは、「コラ、コラ、もう戻ってきなさい」とハッキリ注意するはずです。垣根の外は草が茂っていて、危険がいっぱいです。
無理しなくていいのに、ヒナドリは垣根を跳び越えようとします。それがまたヒナというものです。余計なことにエネルギーを使う、それがまたとても危なっかしい。そして、何度も失敗し、ぶつかったり、はね返されたりしています。
そういうのを漢詩みたいに書く意味あるのか、そこは少し疑問です。俳句でも書けそうなんだけど、漢詩と五七五のコラボということでやってますから、もう突き進んでいくしかないですね。
〇春艸(しゅんそう)の路(みち)三叉(さんさ)中に捷徑(しょうけい)あり我を迎ふ
春草の路(みち)は三つ叉(三差路)になっていて、近道は私を迎えてくれた。とはいうものの、三差路とはいっても、昔歩いた道でもあり、自然に近道を選び取ってしまったのでしょう! おてんばな女の子という設定かな。キャラが揺れてる感じもありますね。オッチャンがことばの中に顔を出してないかな?
〇たんぽゝ花咲(さけ)り三々五々五々は黄に
三々は白し記得(きとく)す去年(こぞ)此路(このみち)よりす
タンポポは花盛りです。三々五々みなそれぞれ黄色くなっています。かつてこの道を歩いたこともあります。ここはわたしのふるさとです。タンポポも、ふるさとを離れてどこかへ行きます。みなそれぞれに根付いたところで咲き誇る。みんなそれぞれの人生みたいなものがあるのです。
〇憐(あわれ)みとる蒲公(たんぽぽ)莖短(みじこう)して乳をあませり
なんとなく昔が懐かしくてタンポポを折り取ると、茎からじんわりとにじみでるものがありました。それはもう植物なのだから、うるおいはなくてはならないんですけど、少しかわいそうなことをしましたね。
〇むかしむかししきりにおもふ慈母の恩
慈母の懷袍(かいほう)別に春あり
別にタンポポだけのせいではないと思うのですが、とても人恋しい気分です。そして、やさしいお母さんのことが思い出されます。お母さんに抱かれていると、そこは春というだけではなくて、永遠の春だったような気がするのです。
ふるさとに早く行って欲しいです。お母さんはおられないのかな。だったら、兄弟姉妹は? 人に会わなきゃ、ドラマは生まれませんよ。私たちはそれを楽しみに蕪村さんを読ませてもらっているんだから! 早くドラマを始めて欲しい!