今、朝日新聞で古谷敏さんのインタビュー記事が連載されています。あと何回かは続くと思われます。
そうでした。ウルトラセブンのウルトラ警備隊の紅一点のアンヌ隊員だった、ひし美ゆり子さんのブログ、フォローしてたんでした。そこでひし美さんの関係のあった人たちとか、最新情報とかイベントのお知らせとか教えてもらってたんでしたね。
それで、古谷さんは長い間、みんなから遠ざかっていたというか、音信不通だったのが、ようやくにして連絡が取れて、みんなでトークショーとかするようになった、ということとかを教えてもらってたんでした。
古谷さんは長身の人で、東宝の映画でもいくつかちょい役で出てたりしたようでした(五十数年前!)。それが、ウルトラシリーズが始まって、ウルトラQでケムール人の着ぐるみの中に入り、ハッハッハーとかやってて、それで今度はラゴンの中に入ったり、少しずつ使われるようになったということでした。
ウルトラQが終わったら、今度は続くウルトラマンが始まり、なんとウルトラマンの役柄を演じることになったというのです。
今思うと、怪獣と戦ったりするときに、何だか照れたり、果敢に立ち向かったり、ジャミラを倒すときなんか、ウルトラマンのマスクをつけながら悲しくなったり、すべてマスクの中での演技であったのに、あれは特技監督の指導もあっただろうけど、かなり古谷さんそのものの気持ちがウルトラマンの動きにも反映されていたのだと、今さらながら思った次第です。
そうでした。古谷さんは、照れるところを素直に出せる役者さんだったのです。または、淡々と無表情に、まるで能役者さんみたいな、静かな動きだけで万感を表現したり、いろいろなことをしてきた人でした。
1967年とか、もう50年以上前の話でした。
そこから、ウルトラセブンになったら、今度はウルトラ警備隊の一員になり、アマギ隊員としてメンバーの中ではクールな役回りをする人になりました。科学技術担当だったでしょうか。
そうした数々のウルトラシリーズとの関わりがあったので、シリーズが終わったら、70年代の初めあたりは円谷プロからスーツを借りてきて、ショッピングセンターでの怪獣ショーを行う会社を興して、年商何億とか、従業員何人とか、ビジネスの世界で頑張ったそうです。
でも、やがて流行が過ぎて、怪獣ではなくて、アクションヒーローが活躍する時代になったら、怪獣ショーの出番はなくなり、古谷さんは会社を解散して、ここから音信不通になった。
長いブランクがあって、成田亨さんの個展があった時、たまたま古谷さんが姿を見せて、名刺だけおいてまた姿をくらませたけれど、みんなが古谷さんを探していて、連絡を取って、ふたたび仲間たちと再会できて、現在はトークショーとかをするようになった、というところまで読ませてもらったのかな。
隊員や、スタッフ、みんなが仲間だったと思うんですけど、怪獣のデザインをしていた成田亨さんの奥さんが、古谷さんのことを「ビンちゃん」と呼んで、親しげだったみたいだから、みんなが一丸となって作品を作ってたんだなと、円谷プロの青春を見せてもらった気がしました。
だから、みんないい大人になったけれど、今でもあのころを振り返って青春しているみたいです。
何だか羨ましい。私にそういう仲間、いたでしょうか。
高校、大学、仕事、いろんな仲間がいたけれど、青春を感じさせてくれたのはいつだったんだろう。
また、仲間の皆さんにSNSで呼びかけてみようかな。みんな忙しいし、遠いところにいるんですけど、そして、なかなか会えないんですけど、たまには昔の仲間と青春して、それが今でもポッと輝いてくれたら、それだけでもうれしいな。