日曜の夜、クラシックアワーか何かで、井上道義さんが伊福部昭さんの音楽を指揮しておられました。
家族には腰をもんでもらいながら、伊福部昭をうつろになりながら聴くという至福の時間を過ごしていました。ウーアーとかいいながら、音楽なのか、腰の快感なのか、よくわからない時間をトロローンとしながら。
ゴジラのテーマみたいな、定型のコツコツやってくる音楽もいいんです。でも、何だかムチャクチャな、すべてを破壊尽くすみたいな、問答無用の嵐みたいなのがやって来てもらいたい気持ちになりました。
たぶん、あまりに自らが不甲斐なくて、だらしなくて、庭仕事もしないし、片づけもしないし、ダラダラしていただけで、あわてて年賀状も書こうとはしましたけど、すぐに飽きてしまって、情けない気持ちがいっぱいになりました。
ですから、テレビだけでは満足できなくて、もっとムチャクチャなもの、こちらの話も聞いてくれなくて、どうして私たちの生活をムチャクチャにするのよ! みたいな、反抗的な気持ちが起こりました。それで、今度はヘッドホンで伊福部さんのCDを出してきて、聴いてみました。
やはり、破壊的な、まわりを睥睨するような、見得切ってるような、どうだ、このオレ様のお通りだみたいな、わがままな音が耳に残りました。
夕方、再びそのCDをクルマで聴いたけれど、まだその気分があったので、ついでに昔何度も描いたキングギドラを描いてみました。
キングギドラは70年代までは完全な悪役だし、全くこちらの気持ちを無視する、ギリシャ神話的な破壊神でしたけど、それから後はパッとしなくなりました。
宇宙人にこき使われる下っ端みたいな位置に落ち込んでしまっていた。どんどん怖さがなくなっていったんでしょうか。
それを、先日亡くなった大森和樹監督さんが80年代の終わりにカムバックさせてくれたけれど、そのまままた消えてしまいました。
ゴジラシリーズはそれから続きましたけど、キングギドラの出番はなくなった。
だから、伊福部昭さんの音楽を聴く時だけ、私たちの想念の中をみんなをひっくり返しながら飛び去って行くのです。どうして? なんて、疑問も受け付けなくて、「キングギドラだ、文句あるか」と言わないけど、言ってるみたいにして飛んでいくのです。
音楽がキングギドラなのか、キングギドラはああいう音楽なのか、たぶん、混然一体となったものがキングギドラなんだろうけど、若い人には、そんなイメージも持たなくて、「ドラゴンみたいね」とか、「重々しい音楽だな」とか、「もっと軽いテンポの音楽ないの?」なんて言うのかな。
若い人には、もうキングギドラは要らないのかもしれない。もう十分邪悪なものがあふれているし、結局一番恐ろしいのは人間であり、無理やり恐ろしいものをつくらなくても、イヤというほどそういうのを感じているんでしょう。
そう考えると、何か悲しいけど、映画の中だけの悪役のキングギドラ的なもの、今の世の中で味わえたりするかなあ。みんな不採用でしょうね。私だけでも描いてみようかな。