作者のブリューゲルさんは、人間のいろんな様子を描いてきた人でした。あまりお上品とは言えない、少しがさつで、あさましくて、意地汚くて、せこい、ずるい、みすぼらしい、とても怖い部分を持っている、人間のダークサイドを取り出して克明に描いてきた人でした。
でも、おとぎ話めいてたり、超現実的だったり、異次元世界のようでもあるし、不思議と受け入れてしまえるところもある人でした。キライな人もいるだろうな。私はわりと好きでした。そりゃもう、私には深い深いダークサイドもあるから、それになるべく関わらないように生きていきたいのだけど、それは紙一重のところもあるのでしょう。個人の中の明と暗の戦いは、たぶん生涯ずっと続くのだと思います。
私だって、悪魔になろうと振り切ったら、なれるのかもしれない。でも、絶対になりたくないという気持ちもあるので、せいぜい戦っていきたい。
ひとりの人間のウラ表とは、実はみんなが持っているものではあります。それをどうコントロールするかです。
ブリューゲルさんは、そうした人間たちの姿をわかりやすく、みっともなくて、みじめったらしく描いて見せてくれる人でした。だから、ブリューゲルさんの絵を見たら、ドキッとして自分の中にそういう恐ろしいものがあるのだと意識することができる(それは自分の中の深い淵をのぞくことでもあります)。自らのダークサイドに転落しないようにコントロールするのは、また別のところで、とにかく、そういうのが自分の中にあると自覚するのが大事でした。
テレビ局や報道の仕方・現場は、効率化と効果的な絵作りと、安上がりでセンセーショナルな空気感を求めてエスカレートしてきたのでしょうか。人が人のことを報道しなくてはいけませんが、そういう現場に立つとき、そこには使命感と報道する内容への共感がなくてはなりませんでした。
それがないと、ただのプロパガンダ(情報操作・宣伝・事実誤認)になってしまう。ロシアの報道番組をまともに見たことはありませんが、テレビの箱の中には、権力からお許しを得た無味乾燥の、人々に何も考えさせない空疎な内容・情報のみが流されているんでしょう(そんなの見たら、大抵の人はわかってしまう。だまされる人もいるだろうけど)。
だから、逃げ出すことのできる若い人たちは、これではいけないと感じて外へ逃げ出している。
日本では、落ち目のテレビ局(某F系列)が、生々しい現場に行け、と指示を出した人がいるらしく、現場で空疎な報道を流していたと、帰宅したら家族が教えてくれました。それをネットのみなさんたちはちゃんと「これはおかしい」と指摘できているから、まだ救われます。落ち目なところは刺激だけが欲しくて、共感のない報道をしているようです。どんどんそういうところをボイコットする流れが起きれば、テレビ局の報道も変わっていくでしょうか。
日本の報道が、どれくらい現場の人々に寄り添えているか、それはいつも問われている問題です。知床の事故のことも、ただ社長をつるし上げるんだ、それが私たちの正義だと、報道の人たちが思っているとしたら、それはプーチンの正義と変わらない気がする。
あの社長こそは、実は私たち自身の姿なのだ、というのを感じながらの取材でなければ、それは単純に責任追求するだけで終わります。そして、新たな事件や新たなゴシップを探し、いつものつるし上げをするはずです。どれだけ私たちは心あるニュースというのに触れられているのか、私たちの問題でもありますね。
ブリューゲルさんも、たくさんの人の醜さを描いて来ました。おもしろみもあったように感じたんですが、やがてブリーゲルさんは見つけるのです。
たくさんの罪ある人を裁いてきた絞首台、そのすぐ横では相変わらず人間たちは騒いでいる。けれども、一羽のカササギは、そういう人間たちに一瞥も与えず、ひと鳴きふた鳴き、しばらくしたらそこを去っていく。この何ごともなかった感の中に、人々への共感を描けた。だから、いまわしい絞首台さえカササギのおかげで、とても静かでやさしい世界に変えてもらっていた。
だから、ブリューゲルさんは、これを描き、自分の画業のまとめみたいにした。私たちは、このブリューゲルさんの見つけたもの、それを日々忘れないで生きていかなくてはならない、そう思います。
人のみっともなさも見せてもらえるけど、自然の静かないとなみを思い出させてくれていたんです。