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秦の戦国、商鞅さん 中歴62

2018年06月26日 12時36分01秒 | 中国の歴史とことば

 秦という国に行きます。戦国策と史記で紀元前400年頃を探していました。とりあえず、秦の国の成り立ちから見てみます(なかなか取っ掛かりが見つかりませんでした。困ったときは王道で、ということで、秦なんですよ!)。

 秦は西北辺境にいた贏(えい)姓部族で、西戎(せいじゅう 異民族)と雑居し、数々の異色ある伝説につつまれているそうです。というか、中国の範囲からは外れていたというべきでしょうか。西周の中頃、周の孝王から「秦」の地に与えられたそうです。(前872)。

 春秋時代の前期、徳公の時(前766)に都を雍(よう)に移します。公位継承の争いで出奔した晋の公子夷吾(いご 恵公)を助けたり、ほかにも重耳さんを文公として即位させた陰の実力者は、秦の穆公(ぼくこう 在位BC659~621)でした。穆公は名臣・百里奚(ひゃくりけい)らを登用して秦を隆盛に導き、隣国晋とも対決する姿勢を示すようになります。


 それから三百何十年、孝公さんという王様が立ちます。孝公さんは魏に仕えていた法家の商鞅(しょうおう)さんを国に招きました。

 法がつくられると、国が守られるのはもちろんのこと、信賞必罰の規定によって国家君主の権力が強大となるのです。そうした法治国家を築き、法によって人・社会・政治を動かし、国が強くなるという法家の主張を大胆に取り入れたのでした。

 かくして秦では富国強兵策が行われ、商鞅の変法改革が始まります(B.C.359/B.C.356~)。

 B.C.350年、都は渭水(いすい)北岸の咸陽(かんよう)に遷され、直轄地を県、辺境地域を郡とし、王の任命による官吏を派遣して統治する郡県制を導入し、より強固な官僚制度を施行します。中国の政治システムの基本形が成立することになります。

 さらに度量衡の統一、軍功をあげた民への授爵など、商鞅さんを中心に様々な改革が施されます。この結果、秦は七雄における最強国となりました。

 しかし、急激な改革の施行は保守派貴族や反法家たちに嫌われ、孝公さんが没した直後、商鞅さんは捕らえられて車裂きの刑に処されます(B.C.338)。これからも何回も続くパターンで、支えてくれる王様が亡くなられると、その下で権力をふるっていた政治家がコロリと処刑されるという形です。


 韓国なんかでは今でも同じようなことが行われている。日本では、権力にあった人は大御所になることになっていて、引退してからでも隠然たる力を持つのであります。これは日本オリジナルのパターンなんだろうか。

 さて、孝公さんの没後から、君主の自称が"公"から"王"に変わっていったように、集権的支配の精神は引き継がれていきます。連合体の中のトップという意味の「公」が、その地域の完全なるトップという意味の「王」になりました。

 歴史の勉強はこれでOKです。ことばは……


72【危うきこと朝(    )のごとし】……一刻の猶予もできない危険な状態をいう。

秦の宰相・商鞅さんを、趙良さんが諌めて言った。

 「あなたのお命は、朝露がすぐ消え去るような危険な状態になっています。それでも長寿をお望みになるのでしょうか。それならばどうして領地をお返しになって、田舎で畑仕事をなさろうとしないのですか」と。

 しかし、それに答えずそのまま権力をふるっていたそうです。本当に何千年も前から、私たちは自分の進退が上手にできません。どんなに歴史を学んでも、「いや、私は違うだろう」などと思うようです。《史記・商君列伝》


★ 答え 72・露(ちょうろ)


★ 趙良さんって、どんな人なのか、興味がありますね。もう少し彼のことを書いたのがないのかな。調べてみたいです。とりあえずネットなのかな。


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