「タンポポのあけくれ」という本を買った、というのは何日か前に書きました。まだ少ししか読んでいないけど、少しだけ引用させてもらおうと思います。
タンポポは、綿毛で遠くまで飛んで行って、そこで根をおろすから、いろんなところに少しずつ広がっていく、タンポポ書店も、少しずつあちらこちらで新しく住むところを見つけていくのだ、などの意味を込めて、つけられた店の名前でしたね。
そして、著者の千歳(ちとせ)さんも、山形に生まれ、大阪でお仕事をされ、徳島の剣山でダンナさんと出会い、ダンナさんはお店は開いたけれど、アルバイトでトラックの定期便の運転手さんをされたり、二人三脚でやって来られた日々をあれこれ書いておられるんでした。
最初のところは、高知の西武百貨店で古書市をされたときの思い出とかが書かれていて、あちらこちらで古書というのか、あまりに多すぎる本たちの中で見えなくなっている自分と出会うべき本が、古書店の中ではそれぞれに皆さんが見つけてくださって、本当ならいつまでもそばにいて欲しいと高い値段をつけた本でも、しばらくしたら売れてしまったなんていうのが書かれていました。
やはり、出会うべき本というのは、古書店にしか見つけられないというのか、普通の一般書店ではほとんどその可能性がないのだ、という気になりました。
中学の同窓会に参加した時のことが書かれていて、中学の思い出が書かれてましたけど、東京をスタートするのに遠来の客が二人で、自分とMちゃんの二人だったそうです。
彼女と私は、生まれた時から隣同士で、二人とも家庭科のお裁縫が大嫌いだった。運針の時、長い長い糸にして、もつれさせ、一時間の家庭科の時間は、もつれた糸のまま終わってしまうのだった。
「長い長い糸で運針する人は、遠くへお嫁に行きます」と先生はおっしゃった。
一人は北へ、一人は南へ、家庭科の先生は二人の将来を、本当にお見通しだったと、同級会の度にそのことを思い出す。
ということでした。「あれ、うちの奥さんはどうだったんだろう」なんて、つまらないことを考えたりしました。たまたまだろうけど、先生にはそういうことを誰かから教わったことがあったんでしょうね。
それから、紙の思い出もビックリしたことのひとつで、
今のように本があふれている時代ではなかった。本によらず、紙に印刷されている文字は、すべて貴いものだった。
国民学校(小学校)へ入学したばかりのころ、新聞をまたいで、父に火ばしですねをしたたかにたたかれた記憶がある。
今、新聞を取っていない家庭はないが、昭和十七、八年ごろ、私の村では、新聞を取っている家はまれで、その新聞も、一日遅れで配達になるものだった。
同級生のKさんのお父さんと、父はやはり同級生で、兄のように、Kさんのお兄さんも出征していた。父は、家で読んだ後の新聞を、戦況を知らせるために、Kさんのお父さんに届けていた。学校で私がKさんに、一日遅れの新聞をさらに一日遅れて手渡していた。
そんな風に、戦前の田舎の新聞事情を教えてもらったりしています。うちの父や母と同世代の人の文章だから、うちの父母もこんなにして育ってたのか、なんて思いながら、読ませてもらっています。