うちの父は、ずっと大阪でお勤めしていたような印象がありますが、そこへたどりつくまでにあれこれ寄り道をしたことがあった、という話をずっと昔に聞いたまま、ちゃんと確認もせず、今に至っています。
今度、カゴシマへ行く用事があるので、伯母にたずねてみようと思います。伯母ならきっと、教えてくれるかもしれない。それにしても、父たちの兄弟・男2人と女4人の6人の兄弟がいたのに、今は89歳の伯母と80いくつの叔母の2人だけになってしまいました。
従兄は何人いるんでしょうか。その従兄の中でも亡くなった人がいるので、いつかこの従兄たちもこの世からいなくなります。まあ、そんなのは当たり前で、今さら書くことではありません。でも、これが世の中なのだと思います。みんなそれぞれの思いを抱いて、怒ったり、仲良くしたり、それぞれが結婚したりしながら生きてきて、いつかそれぞれこの世からいなくなってしまう。
もちろん、私も、いつかこの世からいなくなってしまう。だから、せいぜい生きている間は、精一杯やろうぜと思う気持ちと、適当に楽していこうというだらしない気持ちとのバランスをとりながら、たいしたこともしないで1日が過ぎていきます。
ああ、この時間の流れだけはどうしようもできないです。だから、少しでも楽しい人々と、楽しく生きていきたいけど、まわりを見回すと、あまり楽しそうな人々がいないのです。
どうしたんでしょう?
選挙がありました。自民党が安定的に勝って、当然のことながら投票率は低くて、あまり盛り上がらず、報道のみなさんも地方選挙だから、適当に結果を流して、今朝などは注目選挙区やせりあったところを分析していたのを見ましたが、まあ国民の皆さんは適当に適当な結果を出しました。
そうです。もう選挙は、なるようにしかならない感じです。
自民党と公明党の行く手をはばむものはありません。地域によっては、地方政党というのがあるようですが、大勢に影響はありません。
今の世の中は、現状維持が基本のようです。NHKの世論調査がタイミング良く報道されていて、安倍内閣の支持率は50%を越えるそうです。社会保障・経済の活性化・外交問題・原子力問題・東北の活性化・安全保障の問題と憲法のことなど、安倍内閣になんとかしてもらいたいと国民のみなさんは期待しているということでした。
それが選挙の結果にもつながったのでしょう。その国民の期待を受けて、どれだけのことができるかですが、政治家に何かを期待する方がまちがっています。今の世の中は、自分のことは自分で守るしかない、自分の老後も、自分の死後も、自分の家族も、自分があれこれ考えて守るしかないのだ、という私の結論です。
だれも他人は信用できない、という考えになっています。
私はオッサンだから、こうなってしまったのだと思っていました。
でも、今の若い人たちは、もっと想像以上にそんな感じになっている、という話です。
今の若い人たちは、みんな賢く、未来が見渡せて、着実に生きているように見えます。そういう賢そうな若い人たちに、折角だから昔の話を教えてあげようと思って、自分たちが昔見聞きしたことを伝えようとしたとします。
オリンピックが東京であったんだよ(私は全く記憶がありません。その次のメキシコもあやふやで、ミュンヘンでやっとはっきりしてくる感じです)とか……、
1970年は大阪で万博があったんだよ(これは熱意をもって伝えられそうですが、若い人はピンとこないというか、盛り上がった大きなイベントがあったんだろう程度の受け止め方でしよう。私たちは少しもどかしいと思いつつ、細かな記憶を掘り起こして伝えようとします。でも、たぶん無駄なことでしよう)とか……
2002年の日韓共同のワールドカップ、日本チームは決勝トーナメントに進んで、残念ながらトルコに仙台でやられて、ベスト16で終わったんだよ、といえば、2010年の南アフリカ大会でもベスト16になったし、これからもそういうこともあるんじゃないの。と反論されるかもしれない。
いや、1997年かにアジア最終予選のプレーオフで、イランに延長で野人・岡野が決勝ゴール上げたときなんかは本当にすごかったんだよ。涙がいっぱい出たんだよ。と言っても、どうして昔はアジア予選でもたもたしてたんだろう、とバカにされるかもしれない。
なかなか私たちの感動や涙が伝わらない。私たちも伝えようという熱意をなくしているし、こまかいことまで憶えてないし、ただ感動して、ただうれしかっただけなので、そういう経験は日々薄れてしまいます。
それでは、悲しいこと・辛いことはどうでしょう。
昔、熊本の南にある水俣というところで、工場の廃液がたれ流しになっていて、それを知らずに魚を食べた人々は本人やその家族が、あたりまえの生活ができなくなることがあって、たくさんの人が苦しみ、それを裁判で訴え、何年もかけて工場や熊本県、日本国を相手に戦って、ものすごい歳月の後に、国の反省を引き出したけれども、その後もずっとたくさんの人たちが苦しんだんだよ。それはつい数十年前の日本にあったことなんだよ。
水俣の事件を伝えようとしたら、それは日本が経済発展していく時に、やむを得ず起こったことであり、工場関係者も廃液がそこまでの被害になると考えていなかったし、だれも予測できないことだったのですよ。仕方のないことなんじゃないですかと、バッサリ切り捨てられてしまいます。
それじゃ、昔、広島と長崎に原爆が落とされて、何十万という人たちが亡くなったりしたんだよ。私たちはこの苦い記憶をいつまでも忘れずに伝えて行かなくちゃいけないと思うよ、と私たちが言ったとしたら、
原爆が落ちたことで、戦争が終結したのであり、それで初めて日本政府がポツダム宣言を受諾する気になったんでしょ? もし原爆が落ちなかったら、日本の大地で地上戦が行われたかもしれない。それを避けられたのだから、むしろよかったんじゃないの。広島や長崎の人はかわいそうだったけど、仕方ないんじゃないの、という反応が返ってくる。
ああ、もうこうなれば沖縄戦のことを語ろうとも、中国大陸で日本軍がしでかしたことをとりあげても、特攻隊のことにしても、福島原発のことにしても、米軍の基地が沖縄に集中していることにしても、どれもこれも仕方なかったんじゃないので返されそうです。
若い人に、そこで苦しむ人々に共感というか、せめて自分たちに置き換えて考えてみようと提案しても、若い人はついてきてくれないみたいです。すべて現状を追認する形で、仕方ないじゃないの。そんな苦しいところにこだわらずに、楽しく楽な方法・生き方を考えればいいじゃん。ということになるみたいです。
私たちは、他人に共感し合わないように生きてきて、自分のことは自分で守る。人のことは知らない。昔の人のことも知らない。今がすべて。今、自分の生活がそれなりに回るなら、もし回らなくても、ある程度仕方ないので、とにかく自分のことだけせいぜい頑張る、そういう生き方になっています(私も多少そうかもしれない)。
それでは、人は生きている価値はないです。まわりの人のしあわせを何ともできない人間が、自分だけしあわせになろうなんていうのは甘い、というか、それ自体成立しないしあわせなのに、人が苦しんでる姿がチラッと見えても、自分は今はしあわせだからまあいいや、というのはしあわせではありません。
そんなわかりきったことが、今の若い人たちには意外と通用しないのかもしれません。人が目の前で倒れても、まあいいやとスルーしてしまうこともあるのかもしれない。
そういう現状です。だから、せいぜいオッサンは、お互いが助け合って、みんなで楽しそうにしている姿を若い人に見せびらかして、こういうのが楽しいんだよというのを、見せて行かなきゃと思います。
そうしたら、選挙の結果も変わるかもしれない。外に目を向けなきゃ、私も、若い人も!
今度、カゴシマへ行く用事があるので、伯母にたずねてみようと思います。伯母ならきっと、教えてくれるかもしれない。それにしても、父たちの兄弟・男2人と女4人の6人の兄弟がいたのに、今は89歳の伯母と80いくつの叔母の2人だけになってしまいました。
従兄は何人いるんでしょうか。その従兄の中でも亡くなった人がいるので、いつかこの従兄たちもこの世からいなくなります。まあ、そんなのは当たり前で、今さら書くことではありません。でも、これが世の中なのだと思います。みんなそれぞれの思いを抱いて、怒ったり、仲良くしたり、それぞれが結婚したりしながら生きてきて、いつかそれぞれこの世からいなくなってしまう。
もちろん、私も、いつかこの世からいなくなってしまう。だから、せいぜい生きている間は、精一杯やろうぜと思う気持ちと、適当に楽していこうというだらしない気持ちとのバランスをとりながら、たいしたこともしないで1日が過ぎていきます。
ああ、この時間の流れだけはどうしようもできないです。だから、少しでも楽しい人々と、楽しく生きていきたいけど、まわりを見回すと、あまり楽しそうな人々がいないのです。
どうしたんでしょう?
選挙がありました。自民党が安定的に勝って、当然のことながら投票率は低くて、あまり盛り上がらず、報道のみなさんも地方選挙だから、適当に結果を流して、今朝などは注目選挙区やせりあったところを分析していたのを見ましたが、まあ国民の皆さんは適当に適当な結果を出しました。
そうです。もう選挙は、なるようにしかならない感じです。
自民党と公明党の行く手をはばむものはありません。地域によっては、地方政党というのがあるようですが、大勢に影響はありません。
今の世の中は、現状維持が基本のようです。NHKの世論調査がタイミング良く報道されていて、安倍内閣の支持率は50%を越えるそうです。社会保障・経済の活性化・外交問題・原子力問題・東北の活性化・安全保障の問題と憲法のことなど、安倍内閣になんとかしてもらいたいと国民のみなさんは期待しているということでした。
それが選挙の結果にもつながったのでしょう。その国民の期待を受けて、どれだけのことができるかですが、政治家に何かを期待する方がまちがっています。今の世の中は、自分のことは自分で守るしかない、自分の老後も、自分の死後も、自分の家族も、自分があれこれ考えて守るしかないのだ、という私の結論です。
だれも他人は信用できない、という考えになっています。
私はオッサンだから、こうなってしまったのだと思っていました。
でも、今の若い人たちは、もっと想像以上にそんな感じになっている、という話です。
今の若い人たちは、みんな賢く、未来が見渡せて、着実に生きているように見えます。そういう賢そうな若い人たちに、折角だから昔の話を教えてあげようと思って、自分たちが昔見聞きしたことを伝えようとしたとします。
オリンピックが東京であったんだよ(私は全く記憶がありません。その次のメキシコもあやふやで、ミュンヘンでやっとはっきりしてくる感じです)とか……、
1970年は大阪で万博があったんだよ(これは熱意をもって伝えられそうですが、若い人はピンとこないというか、盛り上がった大きなイベントがあったんだろう程度の受け止め方でしよう。私たちは少しもどかしいと思いつつ、細かな記憶を掘り起こして伝えようとします。でも、たぶん無駄なことでしよう)とか……
2002年の日韓共同のワールドカップ、日本チームは決勝トーナメントに進んで、残念ながらトルコに仙台でやられて、ベスト16で終わったんだよ、といえば、2010年の南アフリカ大会でもベスト16になったし、これからもそういうこともあるんじゃないの。と反論されるかもしれない。
いや、1997年かにアジア最終予選のプレーオフで、イランに延長で野人・岡野が決勝ゴール上げたときなんかは本当にすごかったんだよ。涙がいっぱい出たんだよ。と言っても、どうして昔はアジア予選でもたもたしてたんだろう、とバカにされるかもしれない。
なかなか私たちの感動や涙が伝わらない。私たちも伝えようという熱意をなくしているし、こまかいことまで憶えてないし、ただ感動して、ただうれしかっただけなので、そういう経験は日々薄れてしまいます。
それでは、悲しいこと・辛いことはどうでしょう。
昔、熊本の南にある水俣というところで、工場の廃液がたれ流しになっていて、それを知らずに魚を食べた人々は本人やその家族が、あたりまえの生活ができなくなることがあって、たくさんの人が苦しみ、それを裁判で訴え、何年もかけて工場や熊本県、日本国を相手に戦って、ものすごい歳月の後に、国の反省を引き出したけれども、その後もずっとたくさんの人たちが苦しんだんだよ。それはつい数十年前の日本にあったことなんだよ。
水俣の事件を伝えようとしたら、それは日本が経済発展していく時に、やむを得ず起こったことであり、工場関係者も廃液がそこまでの被害になると考えていなかったし、だれも予測できないことだったのですよ。仕方のないことなんじゃないですかと、バッサリ切り捨てられてしまいます。
それじゃ、昔、広島と長崎に原爆が落とされて、何十万という人たちが亡くなったりしたんだよ。私たちはこの苦い記憶をいつまでも忘れずに伝えて行かなくちゃいけないと思うよ、と私たちが言ったとしたら、
原爆が落ちたことで、戦争が終結したのであり、それで初めて日本政府がポツダム宣言を受諾する気になったんでしょ? もし原爆が落ちなかったら、日本の大地で地上戦が行われたかもしれない。それを避けられたのだから、むしろよかったんじゃないの。広島や長崎の人はかわいそうだったけど、仕方ないんじゃないの、という反応が返ってくる。
ああ、もうこうなれば沖縄戦のことを語ろうとも、中国大陸で日本軍がしでかしたことをとりあげても、特攻隊のことにしても、福島原発のことにしても、米軍の基地が沖縄に集中していることにしても、どれもこれも仕方なかったんじゃないので返されそうです。
若い人に、そこで苦しむ人々に共感というか、せめて自分たちに置き換えて考えてみようと提案しても、若い人はついてきてくれないみたいです。すべて現状を追認する形で、仕方ないじゃないの。そんな苦しいところにこだわらずに、楽しく楽な方法・生き方を考えればいいじゃん。ということになるみたいです。
私たちは、他人に共感し合わないように生きてきて、自分のことは自分で守る。人のことは知らない。昔の人のことも知らない。今がすべて。今、自分の生活がそれなりに回るなら、もし回らなくても、ある程度仕方ないので、とにかく自分のことだけせいぜい頑張る、そういう生き方になっています(私も多少そうかもしれない)。
それでは、人は生きている価値はないです。まわりの人のしあわせを何ともできない人間が、自分だけしあわせになろうなんていうのは甘い、というか、それ自体成立しないしあわせなのに、人が苦しんでる姿がチラッと見えても、自分は今はしあわせだからまあいいや、というのはしあわせではありません。
そんなわかりきったことが、今の若い人たちには意外と通用しないのかもしれません。人が目の前で倒れても、まあいいやとスルーしてしまうこともあるのかもしれない。
そういう現状です。だから、せいぜいオッサンは、お互いが助け合って、みんなで楽しそうにしている姿を若い人に見せびらかして、こういうのが楽しいんだよというのを、見せて行かなきゃと思います。
そうしたら、選挙の結果も変わるかもしれない。外に目を向けなきゃ、私も、若い人も!