18キップで往復10時間かけて静岡の島田市まで行きました。その10時間しっかり読書できたら、それはたいしたものなんだけど、私は若い人たちみたいにずっとスマホをし続ける集中力がなくて、すぐ眠くなったり、外を眺めたり、浜名湖を見つめたり、弁天島で降りたいなと思ったり、つまらないことばかりして、ちゃんと本が読めませんでした。ああ、もったいない。
でも、少しだけ読んだんですよ。「母のキャラメル」(2000)という文藝春秋さんが毎年出しているエッセイ集です。このシリーズはうちにはかなりあって、ブックオフの百円コーナーで見つけたら、ヒョイとお買い上げということがよくあります。「木炭日和」(1998)なんかは、単行本を先に買ったあと、文庫本でも買いました。
「母のキャラメル」は、2回も買ってしまっている。1冊うちにあるというのを知らなくて買ってしまった。あとしばらくしたら、3回目も買うかもしれない。本当にボケボケの日々です。
その冒頭が古山高麗雄(ふるやまこまお)さんの文章で、ヤモメになったということが書いてありました。そして、自分たち夫婦と江藤淳さん夫婦のことを比較して書いておられました。
私と亡妻とは、江藤淳さんのように仲睦まじい夫婦ではなかった。かと言って、仲の悪い夫婦というのでもない。私に対する不満や、批判を、妻はかなりかかえていたが、とにかく五十年、さほどいがみ合ったり、我慢できぬほど嫌悪するようなことはなく、なんとかやってきた。そのようなつながりは、また、普通の夫婦だったと言えそうである。
夫婦のかたちなどというものは、二人にとってそれがよければ、別に世間や一般に合わせなくてもよいのである。
ということで、古山さんちは、お仕事の時はずっと東京にいて、奥さんが通ってきてくれたり、週末に帰ったりという時々別居をしていたそうです。
そういう夫婦生活が五十年にもなり、それなりに歳月を経てきたところで、奥さんが亡くなられた。古山さんは少し途方に暮れているのを素直に書いておられました。
年老いた男は、ヤモメになると、三カ月ぐらいで腑抜(ふぬ)けになり、三年ぐらいで死ぬ者が多いそうだよ、きみはそうならないように、とある友人に言われたが、私は妻の死後、しばらくは葬儀関係に追われた。墓地の業者、香典返しの業者などから、休む間もないぐらい電話がかかる。訪ねて来る業者もいる。知人、友人、縁者たちとの付き合いも忙しくなる。役所への諸届けもしなければならない。
小さな家だが、何がどこにあるのか皆目わからない。どうせわが家のことだからいくらもないだろうが、貯金がどれくらいあるのか、その通帳や判子がどこにあるのかを訊く間もなく、妻は他界したのである。物さがしにも時間をとられる。雑用が次々にあって、腑抜けになっているヒマもない。なにやら追い回されてガサガサしているうちに、三カ月ぐらい、とっくに過ぎてしまった。
この文章を書かれた頃は、古山さんは八十くらいで、そんな年で、奥さんを亡くしてしまったそうです。忙しかったような感じだけれど、どうなるんだろう、という感じです。
妻の死後、すでに七カ月である。そして、いくらか雑用も減り、それをこなす要領もおぼえ、落ち着いてきたように思える。
これから、少しは物を書き、なんとかやって行こう。なるべく生活を、ボケッと物を思う時間と書く時間にしぼるようにしてやってみよう。実は七カ月たってもまだそういう具合にはなっていないけれど、友人が言ったように、三年ぐらいで私も死ぬかどうか、これはわからないなあ。
というふうに書かれて、調べてみたら、2002年の3月11日になくなっておられたのです。私は、こうしたご夫婦というのをいくつか見させられてきました。
フェリーニさん夫婦、城山三郎さん夫婦、その他大勢……。世の中にはお互いに興味をなくして分かれたり、生活のすれ違いで破局を迎えたり、ほかに好きな人ができて別れざるを得なかったり、世の中には分かれてしまう夫婦というのもたくさんいますが、それとは反対に、長年連れ添って、一方がなくなると、スーッともう片方も亡くなってしまうご夫婦がいる。なんだかかわいそうな、それでいてうらやましいような、そういう夫婦の形。
私は、どちらかというと、そのパターンをねらっています。できればあと?十年連れ添って、なかよく同じ時期に亡くなってしまう。そういうのがいいなあと、勝手に思ったのです。
奥さんには相談していませんし、奥さんの方がイヤになって愛想を尽かしてしまうかもしれないし、とりあえず努力は必要だけど、とにかく理想の夫婦の形を見つけたと思いました。
でも、それは単なる努力だけじゃなくて、よほど運命の巡り合わせがうまくいかないとそうならないのかなと思います。まあ、運命も努力次第で変えられるのかもしれません。せいぜいがんばりたいです。
何だか、奥さんのことを書くと、それなりにのろけているような雰囲気ですけど、現実はそうではなくて、問題は日々転がっています。せいぜい夫婦で問題解決に取り組まねばなりません。でも、私がいいかげんで、よくないです。とにかく、がんばります。
でも、少しだけ読んだんですよ。「母のキャラメル」(2000)という文藝春秋さんが毎年出しているエッセイ集です。このシリーズはうちにはかなりあって、ブックオフの百円コーナーで見つけたら、ヒョイとお買い上げということがよくあります。「木炭日和」(1998)なんかは、単行本を先に買ったあと、文庫本でも買いました。
「母のキャラメル」は、2回も買ってしまっている。1冊うちにあるというのを知らなくて買ってしまった。あとしばらくしたら、3回目も買うかもしれない。本当にボケボケの日々です。
その冒頭が古山高麗雄(ふるやまこまお)さんの文章で、ヤモメになったということが書いてありました。そして、自分たち夫婦と江藤淳さん夫婦のことを比較して書いておられました。
私と亡妻とは、江藤淳さんのように仲睦まじい夫婦ではなかった。かと言って、仲の悪い夫婦というのでもない。私に対する不満や、批判を、妻はかなりかかえていたが、とにかく五十年、さほどいがみ合ったり、我慢できぬほど嫌悪するようなことはなく、なんとかやってきた。そのようなつながりは、また、普通の夫婦だったと言えそうである。
夫婦のかたちなどというものは、二人にとってそれがよければ、別に世間や一般に合わせなくてもよいのである。
ということで、古山さんちは、お仕事の時はずっと東京にいて、奥さんが通ってきてくれたり、週末に帰ったりという時々別居をしていたそうです。
そういう夫婦生活が五十年にもなり、それなりに歳月を経てきたところで、奥さんが亡くなられた。古山さんは少し途方に暮れているのを素直に書いておられました。
年老いた男は、ヤモメになると、三カ月ぐらいで腑抜(ふぬ)けになり、三年ぐらいで死ぬ者が多いそうだよ、きみはそうならないように、とある友人に言われたが、私は妻の死後、しばらくは葬儀関係に追われた。墓地の業者、香典返しの業者などから、休む間もないぐらい電話がかかる。訪ねて来る業者もいる。知人、友人、縁者たちとの付き合いも忙しくなる。役所への諸届けもしなければならない。
小さな家だが、何がどこにあるのか皆目わからない。どうせわが家のことだからいくらもないだろうが、貯金がどれくらいあるのか、その通帳や判子がどこにあるのかを訊く間もなく、妻は他界したのである。物さがしにも時間をとられる。雑用が次々にあって、腑抜けになっているヒマもない。なにやら追い回されてガサガサしているうちに、三カ月ぐらい、とっくに過ぎてしまった。
この文章を書かれた頃は、古山さんは八十くらいで、そんな年で、奥さんを亡くしてしまったそうです。忙しかったような感じだけれど、どうなるんだろう、という感じです。
妻の死後、すでに七カ月である。そして、いくらか雑用も減り、それをこなす要領もおぼえ、落ち着いてきたように思える。
これから、少しは物を書き、なんとかやって行こう。なるべく生活を、ボケッと物を思う時間と書く時間にしぼるようにしてやってみよう。実は七カ月たってもまだそういう具合にはなっていないけれど、友人が言ったように、三年ぐらいで私も死ぬかどうか、これはわからないなあ。
というふうに書かれて、調べてみたら、2002年の3月11日になくなっておられたのです。私は、こうしたご夫婦というのをいくつか見させられてきました。
フェリーニさん夫婦、城山三郎さん夫婦、その他大勢……。世の中にはお互いに興味をなくして分かれたり、生活のすれ違いで破局を迎えたり、ほかに好きな人ができて別れざるを得なかったり、世の中には分かれてしまう夫婦というのもたくさんいますが、それとは反対に、長年連れ添って、一方がなくなると、スーッともう片方も亡くなってしまうご夫婦がいる。なんだかかわいそうな、それでいてうらやましいような、そういう夫婦の形。
私は、どちらかというと、そのパターンをねらっています。できればあと?十年連れ添って、なかよく同じ時期に亡くなってしまう。そういうのがいいなあと、勝手に思ったのです。
奥さんには相談していませんし、奥さんの方がイヤになって愛想を尽かしてしまうかもしれないし、とりあえず努力は必要だけど、とにかく理想の夫婦の形を見つけたと思いました。
でも、それは単なる努力だけじゃなくて、よほど運命の巡り合わせがうまくいかないとそうならないのかなと思います。まあ、運命も努力次第で変えられるのかもしれません。せいぜいがんばりたいです。
何だか、奥さんのことを書くと、それなりにのろけているような雰囲気ですけど、現実はそうではなくて、問題は日々転がっています。せいぜい夫婦で問題解決に取り組まねばなりません。でも、私がいいかげんで、よくないです。とにかく、がんばります。