ブックオフで中野重治さんの詩集を買ってきました。ずっと遠ざけてた中野さんの詩でしたが、引き寄せられたように開いてみて、すぐに昔に戻って、実は私は中野重治さんの詩のあとを追いかけていたのだと知りました。
ああ、タネアカシを自分でしてしまいましたね。というか、40年ぶりの再会というべきなんだろうか? きっと、そうです。そう思います。
浪
人も犬もいなくて浪だけがある
浪は白浪でたえまなくくずれている
浪は走ってきてだまってくずれている
浪は再び走ってきてだまってくずれている
人も犬もいない
これは、高校の時の「現代国語」で読んだのだと思います。
何とも単純で、そのまんまを歌っています。でも、何か心に残るものがあったんですね。
だから、詩を書きたい、何か詩の気分という時には、私たちは海に行かないと気が済まなかった。
海はまあ距離的には近い、ほんの数キロのところにあったはずですけど、波は感じられたかどうか。都会に育った私は、浜に打ち寄せる波なんて、何回見たのかという程度で、ガコシマの錦江湾の海水浴場、大阪の汚れてたような二色の浜と、若狭の海と、小さい頃はそれくらいだったでしょう。
高校の時も、海に出て、波を見つめるなんていうことはなかった。
そうでしたね。中野さんの詩も、少ない経験と、イメージで読むしかなかったんでした。海は実に近しい存在のようでいて、人それぞれにイメージは違います。人によって打ち寄せる波は違うでしょう。
私は、高校の時、どんな浪のイメージを持っていたのか、ただのテレビの画像だったのか、それとも海水浴の記憶か……、あまりたくさん浪で遊んだことはなかったかもしれません。それからも、あまりありませんでした。
そして、この詩は、南にも北にも海があって、そこに浪はくずれていて、いつまでもどこまでも続いていて、そこに人も犬もいないと語り、あるのは自然の浪だけで、それは変わらずにずっと打ち寄せ続けている、というのが書かれています。
浪は朝からくずれている
浪は頭の方からくずれている
夕方になってもまだくずれている
風がふいている
人も犬もいない
詩は終わりました。でも、相変わらず、浪はくずれているはずです。私たちは、毎日の時間に追われています。
私は、ひまを持て余しているところもあります。あまり大したこともせず、外を見やり、雨が吹きこめば窓を閉めて、暑くなったら扇風機をつけて、とりあえず風を受けています。何とか過ごせている。
とはいうものの、思い切り生きているとか、何かにメチャクチャ打ち込んでいるとかないですね。本はすぐに眠くなってしまう。
一つだけでも、昔の自分を取り戻せたかな。あれこれ気持ちは分散するけど、なるべく落ち着いて本でも読んでみます。
浪にも触れてみなくちゃね。