45【( )年河清を待つ】……いつまで待っていてもむだなことをいう。
★ 空欄に適切な漢数字を答えなさい。
鄭(てい)の卿(けい 大臣)である子国(しこく)と子耳(しじ)が蔡(さい・国の名)を攻めた。蔡を属国としていた楚は黙ってはおらず、鄭を攻撃することになりました。大国の楚が攻めてきたのだから、小国の鄭では意見は、交戦派と和睦派に分裂する。交戦派は自力では戦えないので晋の援軍を待とうと主張することになりますが、交戦派を和睦派の人が説得したときの言葉。《春秋左氏伝》 襄公八年
子駟(しし 和睦派)は言います。
「周の詩に
黄河の濁った水が澄むのを待っていたら、人の寿命で足りることではない。
占っても、お願いすることが多すぎると、あれもこれもと結果が出てくるので、
網にかかったようで動きがとれなくなってしまう。
河(か)の清(す)むを俟(ま)つも、人寿(じんじゅ)幾何(いくばく)ぞ。
兆(ちょう)して云(ここ)に詢(はか)ること多(おお)ければ、職(しょく)として競(きそ)いて羅(あみ)を作(な)す。
こういうことがあるではないか」と。
……詩の教養はこういう時に役に立つわけですね。短い言葉で相手を説得できます。
続けて、
「いろいろな考えはあるだろうけれど、人民がどうなるかということが急を要する問題だ。ここのところは楚に従っておいて、人民の苦しみを緩和しよう。
晋の軍が来た時には、また晋に従えばよい。つつしんで贈り物を用意して、来る者を待つのが小国の道だ。いけにえと玉はくをととのえて、楚と晋の両方の国境で待って、強い方に付いて民を守ろう。敵が悪いことをせず、民が苦しまないなら、結構なことではないか」
以上が、子駟(しし)さんの説得内容でした。なかなか立派な演説ではないですか。こんな人民を思いやる発言をされたら、そりゃもう、みんな納得してしまうでしょう。無言で圧倒的多数派の人民を味方に付けようという発言なのです。
みんなそりゃ、そうだということになるでしょう。これが現実的な政策だったんでしょうね。人はこれを妥協と呼ぶかもしれないけれど、彼の言うように、小国はふらふら時の流れに身を任せて、とにかく自分さえ浮かぶところがあればいいから、それを第一に考えてやっていくしかないのです。
結局、鄭(てい)は、ここでは楚と和睦する。晋が来れば、また晋にペコペコする。それは仕方のないことなのでした。
春秋時代、黄河流域ににあった小国の鄭(てい)。北には晋(しん)、南には楚(そ)という二大強国があって、他の諸国はいずれもこの両大国の圧力を受けて存続を脅(おびや)かされていた。
きっかけを作ったのは、鄭(てい)のお偉方で、その人たちが隣国に攻めていった。たぶん目先の利益を追いかけていたのでしょう。そうすると、そこの権利者というか、自分たちの縄張りだと思っている強国が出てくるのは当たり前です。
そして、トラブルが起きる。あれ、どこかで聞いたような話ですね。超大国の間でフラフラして、親分の顔をながめたり、親分の機嫌をそこねるようなことを部下がしでかしたり、二千数百年経った現代においても、国と国同士で、そうしたトラブルを繰り返しているみたいです。
私たちの国の日本は、小国なのです、本来。なのに、時々、大国気分になったりして、背丈に合わないご立派そうなことをしでかしてしまう。それはトラブルのもとなのになあ。
とにかく背丈にあった行動をする。これは基本です。国家においても、個人においても。
★ 45・百(ひゃくねんかせいをまつ)
★ 空欄に適切な漢数字を答えなさい。
鄭(てい)の卿(けい 大臣)である子国(しこく)と子耳(しじ)が蔡(さい・国の名)を攻めた。蔡を属国としていた楚は黙ってはおらず、鄭を攻撃することになりました。大国の楚が攻めてきたのだから、小国の鄭では意見は、交戦派と和睦派に分裂する。交戦派は自力では戦えないので晋の援軍を待とうと主張することになりますが、交戦派を和睦派の人が説得したときの言葉。《春秋左氏伝》 襄公八年
子駟(しし 和睦派)は言います。
「周の詩に
黄河の濁った水が澄むのを待っていたら、人の寿命で足りることではない。
占っても、お願いすることが多すぎると、あれもこれもと結果が出てくるので、
網にかかったようで動きがとれなくなってしまう。
河(か)の清(す)むを俟(ま)つも、人寿(じんじゅ)幾何(いくばく)ぞ。
兆(ちょう)して云(ここ)に詢(はか)ること多(おお)ければ、職(しょく)として競(きそ)いて羅(あみ)を作(な)す。
こういうことがあるではないか」と。
……詩の教養はこういう時に役に立つわけですね。短い言葉で相手を説得できます。
続けて、
「いろいろな考えはあるだろうけれど、人民がどうなるかということが急を要する問題だ。ここのところは楚に従っておいて、人民の苦しみを緩和しよう。
晋の軍が来た時には、また晋に従えばよい。つつしんで贈り物を用意して、来る者を待つのが小国の道だ。いけにえと玉はくをととのえて、楚と晋の両方の国境で待って、強い方に付いて民を守ろう。敵が悪いことをせず、民が苦しまないなら、結構なことではないか」
以上が、子駟(しし)さんの説得内容でした。なかなか立派な演説ではないですか。こんな人民を思いやる発言をされたら、そりゃもう、みんな納得してしまうでしょう。無言で圧倒的多数派の人民を味方に付けようという発言なのです。
みんなそりゃ、そうだということになるでしょう。これが現実的な政策だったんでしょうね。人はこれを妥協と呼ぶかもしれないけれど、彼の言うように、小国はふらふら時の流れに身を任せて、とにかく自分さえ浮かぶところがあればいいから、それを第一に考えてやっていくしかないのです。
結局、鄭(てい)は、ここでは楚と和睦する。晋が来れば、また晋にペコペコする。それは仕方のないことなのでした。
春秋時代、黄河流域ににあった小国の鄭(てい)。北には晋(しん)、南には楚(そ)という二大強国があって、他の諸国はいずれもこの両大国の圧力を受けて存続を脅(おびや)かされていた。
きっかけを作ったのは、鄭(てい)のお偉方で、その人たちが隣国に攻めていった。たぶん目先の利益を追いかけていたのでしょう。そうすると、そこの権利者というか、自分たちの縄張りだと思っている強国が出てくるのは当たり前です。
そして、トラブルが起きる。あれ、どこかで聞いたような話ですね。超大国の間でフラフラして、親分の顔をながめたり、親分の機嫌をそこねるようなことを部下がしでかしたり、二千数百年経った現代においても、国と国同士で、そうしたトラブルを繰り返しているみたいです。
私たちの国の日本は、小国なのです、本来。なのに、時々、大国気分になったりして、背丈に合わないご立派そうなことをしでかしてしまう。それはトラブルのもとなのになあ。
とにかく背丈にあった行動をする。これは基本です。国家においても、個人においても。
★ 45・百(ひゃくねんかせいをまつ)