山田洋次さんの「家族」1970年、という映画がありましたっけ。井川比佐志さんと倍賞千恵子さんが夫婦役で、父親は笠智衆さんでした(トラさん映画の御前様ですね)。九州・長崎から、北海道の開拓地まで出て行く映画でした。赤ちゃんは亡くなってしまうし、お父さんは北海道に着くと同時に亡くなってしまい、もうやってられない映画でした。それでも、当時の人たちは生きようとしていた。……(九州と北海道は炭鉱つながりだったと妻から教わりました)
今の目で見ると、移住しようという家族の姿勢が信じられないし、そうまでしなくてもいいのではないか、と思ってしまう。博多や、広島・大阪くらいでとどまって、そちらで生活する手段を考えればいいのに、どうして無理して旅をするのだろうと思います。
でも、たぶん、日本は貧しくて、あちらこちらに食うために人々が移動する時代だったのですね。鹿児島の親戚では、何年か前に亡くなった伯父が、農業の合間にでかせぎで山形に行き、そこで骨折して、叔母が務める堺市の病院に入院していたこともありました。その娘さんである、私がオネーチャンと呼んでた従姉は、大阪の大国町のお菓子会社に勤めることになったり、その弟さんの従兄は岐阜の運送会社に就職したりしました。
もう、あちらこちら仕事を求めて、ふるさとを後にしていた。今はみんな鹿児島へ帰り、孫たちに囲まれて暮らしているようですが、当時は地元にいても食えない時代だったような気がします。
高齢化社会の現代日本では、東京に若い人が仕事に出て行くというのはありますが、九州から北海道へ移住しようというのはありません。都会から地方へIターンというのもありますが、昔は北海道は、夢の開拓地だった。
その途中で、大阪の万博に映画の「家族」は寄り道をするのですが、あまり楽しいものではなさそうでした。たくさんの人と混乱と無秩序な未来的なものがあるようでした。
そういえば、A・タルコフスキーさんが「惑星ソラリス」を作ろうとしていたら、日本で未来を描いた博覧会があるみたいだから、取材に行こうと来たらしいです。すると、やはり、万博会場には未来はなくて、東京の首都高速道路が未来に見えたみたいで、主人公が未来都市をクルマで走るシーンに使われていました。当時から首都高は未来的であったらしい。
たしか、ガメラ対ジャイガーで、ジャイガーさんも万博公園をターゲットにあらわれました。しかし、迎え撃つガメラがその辺にあった石像をジャイガーの頭に突き刺して、ジャイガーを倒したような記憶がありますが、これは忍者ワタリかカムイのいずな落としかか何かで、何だかズルイ必殺技だ、と思ったような、思ってないような、なんだやあやふやな記憶です。
とにかく、万博に未来を子どもたちは見ていたような気がします。でも、山田洋次さんは子供だましだと感じ、タルコフスキーさんはニセモノだと判断した。なかなか見る目があったのかもしれない。
私は、子どもなので、素直にだまされていました。
私の万博デビューは、桜の頃、4月過ぎだったかもしれません。家族4人で会場にたどりつきます。地下鉄で会場の真下まで来ました。階段を少しずつ上がれば太陽の塔が見えるはずでした。
たくさんの人々、同じ方角に向かいながら無言で黙々と歩いています。何となくみんなソワソワしている。子どもたちもウキウキしているのに、おっかなびっくりで、何となく不安な感じです。迷子・誘拐・スリなど、そういうことが怖い毎日でした。外に対して不安がありました。……今は、むしろ内側が不安です。いつ家族に暴行されるかわからず、介護してくれていた夫に首を絞められるとか、同居する男から暴行を受けるとか、ご近所のオタクがなぐりかかってくるとか、すぐそばに落とし穴があります。昔はもっと遠いところから怖いものがやってきたような気がします。
さあ、不安ながら、正面ゲートをくぐり、お祭り広場にたどり着きます。真正面に太陽の塔。それでわが家族はオーソドックスにここから見ようということになりました。
ここは実は岡本太郎さんの描いた地球そのものの歴史だったわけですが、私はよく理解できず、とりあえず「何だろう、これは?」とは思ったのかもしれません。気づいたら、お祭り広場の空中にいて、それが丹下健三さんの作品だったとは知らず、特に感興もなく、そのまま降りたようです。ただ、記念写真は撮ったようです。ここへ来ると、少し人もまばらというか、一息抜ける空間だったのでしょうね。
さて、私たちは、次にどこへ行くか、という時に、子どもの意見が優先されて、とりあえず私はすべてのハビリオンが見たいという希望があったのか、テーマゾーンのすぐ右の三菱未来館から逆時計回りで日本館までたどりつきたいという野望を抱き、家族一丸となって、それを実現しようということになった。
そうしたら、行列です。何と2時間待ちということでした。それが万博ショックでした。2時間も待たないと見られないものがあるなんて、今まで知らなくて、ずっと我慢して待つことを知らない大阪のガキだった私には、とても耐えられなかった。
かくして父を代表にして、母と子どもたちはしばらくどこかで時間つぶしをして、ころあいを見計らって合流するということになりました。ああ、何という犠牲を父に強いていたのか、そして、それを父は甘んじて受け入れたことか、今ではとても信じられませんが、そんなことをしてしまいました。
あの時、父は40でした。子どもたちのために、2時間行列に並ぶ覚悟をし、子どもたちには2時間並ぶ苦痛を味わわせたくなかったなんて、本当に申し訳ないことをしました。私なら、こんな並ぶところはやめようぜと、行くこともしないでしょう。ナマケモノでグータラの私には無理なことです。
父母の犠牲の上に、私の万博夢物語はあったのですね。それを考えたら、のんきに昔話を書いていられなくなりました。母にも電話しないといけません。つづきはまた明日!?
今の目で見ると、移住しようという家族の姿勢が信じられないし、そうまでしなくてもいいのではないか、と思ってしまう。博多や、広島・大阪くらいでとどまって、そちらで生活する手段を考えればいいのに、どうして無理して旅をするのだろうと思います。
でも、たぶん、日本は貧しくて、あちらこちらに食うために人々が移動する時代だったのですね。鹿児島の親戚では、何年か前に亡くなった伯父が、農業の合間にでかせぎで山形に行き、そこで骨折して、叔母が務める堺市の病院に入院していたこともありました。その娘さんである、私がオネーチャンと呼んでた従姉は、大阪の大国町のお菓子会社に勤めることになったり、その弟さんの従兄は岐阜の運送会社に就職したりしました。
もう、あちらこちら仕事を求めて、ふるさとを後にしていた。今はみんな鹿児島へ帰り、孫たちに囲まれて暮らしているようですが、当時は地元にいても食えない時代だったような気がします。
高齢化社会の現代日本では、東京に若い人が仕事に出て行くというのはありますが、九州から北海道へ移住しようというのはありません。都会から地方へIターンというのもありますが、昔は北海道は、夢の開拓地だった。
その途中で、大阪の万博に映画の「家族」は寄り道をするのですが、あまり楽しいものではなさそうでした。たくさんの人と混乱と無秩序な未来的なものがあるようでした。
そういえば、A・タルコフスキーさんが「惑星ソラリス」を作ろうとしていたら、日本で未来を描いた博覧会があるみたいだから、取材に行こうと来たらしいです。すると、やはり、万博会場には未来はなくて、東京の首都高速道路が未来に見えたみたいで、主人公が未来都市をクルマで走るシーンに使われていました。当時から首都高は未来的であったらしい。
たしか、ガメラ対ジャイガーで、ジャイガーさんも万博公園をターゲットにあらわれました。しかし、迎え撃つガメラがその辺にあった石像をジャイガーの頭に突き刺して、ジャイガーを倒したような記憶がありますが、これは忍者ワタリかカムイのいずな落としかか何かで、何だかズルイ必殺技だ、と思ったような、思ってないような、なんだやあやふやな記憶です。
とにかく、万博に未来を子どもたちは見ていたような気がします。でも、山田洋次さんは子供だましだと感じ、タルコフスキーさんはニセモノだと判断した。なかなか見る目があったのかもしれない。
私は、子どもなので、素直にだまされていました。
私の万博デビューは、桜の頃、4月過ぎだったかもしれません。家族4人で会場にたどりつきます。地下鉄で会場の真下まで来ました。階段を少しずつ上がれば太陽の塔が見えるはずでした。
たくさんの人々、同じ方角に向かいながら無言で黙々と歩いています。何となくみんなソワソワしている。子どもたちもウキウキしているのに、おっかなびっくりで、何となく不安な感じです。迷子・誘拐・スリなど、そういうことが怖い毎日でした。外に対して不安がありました。……今は、むしろ内側が不安です。いつ家族に暴行されるかわからず、介護してくれていた夫に首を絞められるとか、同居する男から暴行を受けるとか、ご近所のオタクがなぐりかかってくるとか、すぐそばに落とし穴があります。昔はもっと遠いところから怖いものがやってきたような気がします。
さあ、不安ながら、正面ゲートをくぐり、お祭り広場にたどり着きます。真正面に太陽の塔。それでわが家族はオーソドックスにここから見ようということになりました。
ここは実は岡本太郎さんの描いた地球そのものの歴史だったわけですが、私はよく理解できず、とりあえず「何だろう、これは?」とは思ったのかもしれません。気づいたら、お祭り広場の空中にいて、それが丹下健三さんの作品だったとは知らず、特に感興もなく、そのまま降りたようです。ただ、記念写真は撮ったようです。ここへ来ると、少し人もまばらというか、一息抜ける空間だったのでしょうね。
さて、私たちは、次にどこへ行くか、という時に、子どもの意見が優先されて、とりあえず私はすべてのハビリオンが見たいという希望があったのか、テーマゾーンのすぐ右の三菱未来館から逆時計回りで日本館までたどりつきたいという野望を抱き、家族一丸となって、それを実現しようということになった。
そうしたら、行列です。何と2時間待ちということでした。それが万博ショックでした。2時間も待たないと見られないものがあるなんて、今まで知らなくて、ずっと我慢して待つことを知らない大阪のガキだった私には、とても耐えられなかった。
かくして父を代表にして、母と子どもたちはしばらくどこかで時間つぶしをして、ころあいを見計らって合流するということになりました。ああ、何という犠牲を父に強いていたのか、そして、それを父は甘んじて受け入れたことか、今ではとても信じられませんが、そんなことをしてしまいました。
あの時、父は40でした。子どもたちのために、2時間行列に並ぶ覚悟をし、子どもたちには2時間並ぶ苦痛を味わわせたくなかったなんて、本当に申し訳ないことをしました。私なら、こんな並ぶところはやめようぜと、行くこともしないでしょう。ナマケモノでグータラの私には無理なことです。
父母の犠牲の上に、私の万博夢物語はあったのですね。それを考えたら、のんきに昔話を書いていられなくなりました。母にも電話しないといけません。つづきはまた明日!?