内田樹さんと釈徹宗(しゃく・てっしゅう)さんの『聖地巡礼』2013 東京書籍、という本を読みました。大阪と京都と奈良の聖地を、若い人たちとこのお二人でめぐり(巡礼部と称するバスツアー)、あれこれその時の話をまとめた本のようです。
大阪は、聖なるもの・宗教性・霊性をもみ消してしまった町、京都はあちらこちらにそうした場所がひっそりと行かされている町、ちゃんと計算されている。奈良は、田園の中にちゃんと息づいているところ、それぞれの聖地をめぐって、あれこれ話をされています。
お寺のお坊さん(釈だから浄土真宗!)で、大学の先生でもある釈さんが、京都の埋葬について語っておられました。
釈 輪廻の生命観によれば、死んでから四十九日の間、七日ごとに裁判が行われて何に生まれ変わるか決まります。その後、三と七のつく年に再審が行われるので、悪いところに行った人も三回忌、七回忌、十三回忌、十七回忌の再審でちょっとでもいい判決が下りるようにと法事を営むわけです。
ちなみに、この場所(千本 えんま堂)はかつてはいまのように家もなく、草深くて、遺体の捨て場となっていた丘陵地だったといいます。
そんなことがあったんですね。それは無縁仏の埋葬地だったわけかなあ。
内田 土葬ではなく遺体を捨てる。
釈 京都ではそうされることも多かったようです。他の地域では山中に埋葬して、お参り用の墓を近くにつくる両墓性の形態も広く見られます。京都は都市なので疫病が流行ると一度にたくさん死にましたし、戦場なので戦死者がやたら多いですからね。……中略……
内田 京都は久しく日本唯一の大都会で、その一歩外側には原生林が広がっていた。この蓮台野という場所は、自然と都市の分かれ目ですからね。境界線に何かつくっておかないと。
釈 そうですね。ここから先は異界という明快な境界線を感じて人々は暮らしていた。だから、その境界線に閻魔の寺を建てるわけです。
私は、人が亡くなったら、とりあえず集落の近くに土葬し、時々はお参りして、先祖代々を供養してきたのだと思っていました。
でも、それなら、何万何十万というお墓に私たちの生活スペースは埋め尽くされてしまうはずでした。埋葬するのは大事なことではあるけれど、限界があったし、平安・鎌倉の高貴な方たちだって、巨大な古墳は必要なくなっていて、みんな小さな木か、小さな石になって行きました。
だったら、普通の人々の埋葬はどうなったんでしょう。やはり、墓石なんてみんな持ってなかったのかどうか。
内田 お墓ができるようになったのは近世以降なんですね。
釈 はい。それまでは村の共同墓地に埋葬して、個人のお墓をつくることはなかったと思われます。
内田 死んだあともアイデンティティが維持されるというのは、明らかに近世以降ですね。そういう意味では、近世日本はもう近代なんですね。明治になってから欧米型近代を取り入れようとしたといわれていますけれど、すでにその段階で日本はかなり近代化していたということですね。近代と前近代の識別指標は個人のアイデンティティという概念があるかどうかですからね。前近代までは、死んだ人間はそのままある種の無名性のうちに溶け込んでしまうわけですけれど、近代になると、死んだあともずっと固有性が維持される。
王の墓ではなくて、市井の人が等身大の身体の墓をつくるというのは、かなり近代的な発想ですよ。
そうだったのか。福井県には、地域ごとに埋葬の場所が決まっていて、誰かが亡くなったら、その場所「三昧(さんまい)」に土葬する。水上勉さんのお父さんは、大工さんだったそうですが、晩年まで棺桶作りは実に丁寧に作って、唯一の作り手として職人魂をぶつけたということでした。なのに、おうちは雨漏りのする貧乏家だったというのが、これまた職人的で、これが「紺屋の白袴」ですけど、それは、京都から伝わったのか、日本国中がそうだったのを、ずっと若狭地方は守り続けたのか、そんなことを考えさせられる埋葬の話でした。
今度、船岡山と千本えんま堂というのを歩いてこないといけないです。また、いつか、行ってみよう!