甘い生活 since2013

俳句や短歌などを書きます! 詩が書けたらいいんですけど……。

写真や絵などを貼り付けて、二次元の旅をしています。

窓ガラスの油 幻化その2

2020年12月17日 21時51分08秒 | 本と文学と人と

 だまされたと思って、また付き合ってください。お願いします。

 梅崎春生さんの「幻化(げんか)」のその第2回です。まだ飛行機の中です。小さな飛行機だから、通路は一本だけ。その両脇に二つずつのはずで、何人くらい乗ったんでしょう。窓の外で何かあるみたいでした。

 羽田を発つ時には、四十人近く乗っていた。高松で半分ぐらいが降り、すこし乗って来た。大分でごそりと降り、五人だけになってしまった。羽田から大分までは、いい天気であった。海の皺(しわ)や漁舟(いさりぶね)、白い街道や動いている自動車、そんなものがはっきり見えた。大分空港に着いた頃から、薄い雲が空に張り始めた。離陸するとすぐ雲に入った。

 ねっ、大変でしょ。昔の飛行機、55年くらい前は、高松・大分と経由地があって、その度に給油して(?)、鹿児島までめざさなくてはならなかった。どれくらいの時間がかかったんでしょう。

 数時間はかかって、羽田から鹿児島をめざしたんですね。同じころにビートルズが来日しましたけれど、あの人たちも直通で来たんじゃなかったんですよね。どこかに寄り道しながら、はるばる東洋の端っこの国まで来たんでした。疲れただろうな。

 航空機が滑走を開始した時の五人の乗客の配置。五郎と並んで三十四、五の男。斜めうしろに若い男と女。そのうしろの席に男が一人。それだけであった。四十ぐらい座席があるので、ばらばらに乗って手足を伸ばせばいい。そう思うが、実際には固まってしまう。立って席を変えたいけれども、五郎の席は外側で、通路に出るには隣客の膝をまたがねばならない。それが面倒くさかった。
 隣の客はいつ乗り込んで来たのか知らない。五郎は飛行機旅行は初めてなので、ずっと景色ばかりを眺めていた。

 主人公の五郎さんが鹿児島から引き上げる時、汽車で東京まで出たんでしょうか。それにしても、五郎さんは何をしている人なんでしょう。まるでわかりません。とりあえず、入院していた。そこから突然飛行機に乗る段取りをつけて、ヒョイと乗り込んでしまった。

 けれども、それは初めての飛行機の旅だったというのです。そこまでしてどうして鹿児島に行かなくてはならないのか。まるでわかりません。



「乗ると不安を感じるかな?」
 羽田で待っている時、ちらとそう考えたが、乗ってみるとそうでなかった。不安がなかったが、別に驚きもなかった。下方の風景を、見るだけの眼で、ぼんやりと見おろしていた。
 隣の男が週刊誌から頭を上げた。髪油のにおいがただよい揺れた。男は窓外に眼を動かした。じっと発動機を見ている。黒い点を見つけたらしい。五郎は黙って煙草をふかしていた。二分ほど経った。
「へんだね」
 男はひとりごとのように言った。そして五郎の膝頭をつついた。

 もう一人の男も出て来ました。髪の油の匂いのする人、昔はたくさんいました。今もいるんだろうけど、かなり少なくなってきました。昔はどうしてあんなにテカテカ、プンプンさせてたんだろう。

 それがまるで大人の儀式みたいで、あんなのイヤだなとは思っていました。なおさら大人になるのはイヤでした。

 さあ、この黒点は何?



「ねえ。ちょっと見て下さい」
「さっきから見ているよ」
 五郎は答えた。
「次々に這(は)い出して来るんだ」
「這い出す?」
 男は短い笑い声を立てた。
「まるで虫か鼠みたいですね」
「では、虫じゃないのかな」

「そうじゃないでしょう。虫があんなところに棲(す)んでるはずがない。おや?」
 五郎はエンジンを見た。急にその粒々が殖えて来た。粒々ではなくて、くっついて筋になって来る。翼の表面からフラップにつながり、果ては風圧でちりぢりに吹飛ぶらしい。虫でないことはそれで判った。また幻覚でないことも。

 さて、飛行機の油が漏れているのかもしれません。ということは、飛行機は墜落するんでしょうか。どうなるの? 五郎さん、わりとのん気ですね。隣の男はうろたえるんだろうか。



 二人はしばらくその黒い筋に、視線を固定させていた。やがて男はごそごそと動いて、不安げな口調で名刺をさし出した。
「僕はこういうもんです」
 名刺には『丹尾章次』とあった。肩書はある映画会社の営業部になっている。五郎は自分の名刺をさがしたが、ポケットのどこにもなかった。
「そうですか」
 五郎は名刺をしげしげと見ながら言った。
「何と読むんです? この姓は?」
「ニオ」
「めずらしい名前ですね」
「めずらしいですか。僕は福井県の武生(たけふ)に生れたけれど、あそこらは丹尾姓は多いのです。そうめずらしくない」
「わたしは名刺を持ってない」
 五郎はいった。口で名乗った。
「散歩に出たついでに、飛行機に乗りたくなったんで、何も持っていない」

 男は映画会社の営業だったそうです。ということは、どこの会社? そんな人が飛行機で鹿児島まで営業に行くの? いろいろとわからないことだらけです。そして、やがては彼も阿蘇山まで行くんだから、とんでもない行き当たりばったりの営業です。こんなことが許されるんでしょうか。そんなに営業範囲は広いんだろうか。



 外出を許されたわけではない。こっそりと背広に着換え、入院費に予定した金を内ポケットに入れ、マスクをかけて病院を出た。外来患者や見舞人にまぎれて気付かれなかった。煙草を買い、喫茶店に入り、濃いコーヒーを飲んだ。久しぶりのコーヒーは彼の眠ったような情緒を刺戟(しげき)し、亢奮(こうふん)させた。
〈そうだ。あそこに行こう〉
 前から考えていたことなのか、今思いついたのか、五郎にはよく判らなかった。
「そうのようですね」
 丹尾は合点(がてん)合点をした。
「ぶらりと乗ったんですね」
「なぜ判る?」
「あんたは身の廻り品を全然持っていない。髪や鬚(ひげ)も伸び過ぎている。よほど旅慣れた人か、ふと思いついて旅に出たのか、どちらかと考えていたんですよ。飛行機には度々?」
「いえ。初めて」
「この航空路は、割に危険なんですよ」

 営業の人だから、人を見て、あれこれ判断するのは慣れているようです。もちろん、五郎さんは無計画に、やむにやまれず、突発的にカゴシマをめざしています。飛行機は危ないの?



 丹尾はエンジンに眼を据(す)えながら言った。
「この間大分空港で、土手にぶつかったのかな、人死にが出たし、また鹿児島空港でも事故を起した」
「ああ。知っている。新聞で読んだ」
 五郎はうなずいた。
「着陸する時があぶないんだね。で、あんたはなぜ鹿児島に行くんです?」
「映画を売りに。おや。だんだん殖えて来る」
 五郎もエンジンを見た。細い黒筋がだんだん太くなる。太くなるだけでなく、途中で支流をつくって、二筋になっている。五郎は眼を細めて、その動きを見極めようとした。しかし飛行機の知識がないので、それが何であるか、何を意味するのか、判断が出来かねた。五郎はつぶやいた。
「あれは流体だね。たしか」
「油ですよ」
 丹尾はへんに乾いた声で言った。

 目の前で飛行機の燃料が漏れているのが分かったみたいです。だったら、もっと慌ててもいいのだけれど、二人はそんなに慌てていない様子です。今の私たちとは反応速度は違います。そして、淡々と見ている。それが55年前の大人たちの雰囲気だったのかもしれない。

 たぶん、この人たちはうちの父よりももう少しの上の人たちです。何しろ五郎さんは兵士にとられた経験もあったし、その思い出の地を訪ねようとしているのです。20年ぶりの旅でした。



「こわいですか?」
 五郎は少時(しばらく)自分の心の中を探った。恐怖感はなかった。恐怖感は眠っていた。
「いや。別に」
 五郎は答えた。
「映画を売りに? 映画って売れるもんですか?」
「売れなきゃ商売になりませんよ」
 丹尾はまた短い笑い声を立てた。
「映画をつくるのには金がかかる。売って儲けなきゃ、製造元はつぶれてしまう」
「なるほどね」
 そう言ったけれども、納得したわけではない。フィルムなんてものは、鉄道便か何かで直送するものであって、行商人のように売り歩くものではなかろう。そんな感じがする。五郎は丹尾の顔を見た。この顔には見覚えはない。髪にはポマードをべったりつけている。チョビ髭を生やして、蝶ネクタイをつけている。太ってはいるが、顔色はあまり良くない。頬から顎にかけて、毛細血管がちりちりと浮いている。暑いのに、かなりくたびれたレインコートを着ている。五郎は訊ねた。
「映画というと、やはり、ブルーフィルムか何か――」
「冗談じゃないですよ。そんな男に僕が見えますか?」

 五郎さん、強烈な質問をしました。エッチなフィルムを携え営業なんて、それこそ誰も相手にしないし、そんなに儲けになるとも思えません。いや、映画でショボい仕事というと、「ブルーフィルム」という軽蔑的な質問だったのか。おどけてみたのか。冗談だったのか。

 五郎さんの「恐怖感は眠っていた」そうです。だから、もう一度自分の再生の旅に出たのかもしれないのです。



 その時傍(かたわら)の窓ガラスの面に、音もなく黒い斑点ができた。つづいて二つ、三つ。翼を流れるものが、風向きの関係か何かで、粒のまま窓ガラスにまっすぐ飛んで来るらしい。爆音のため聞えないけれども、粒はヤッとかけ声をかけて、飛びついて来るように見えた。二人は黙ってそれを眺めていた。

 やがて最後尾から、スチュワーデスが気付いたらしく、急ぎ足で近づいていた。丹尾は顔を上げて訊ねた。
「これ、何だね?」
「潤滑油、のようですね」
「このままで、いいのかい?」

 もちろん、このままでいいわけはありません。機長に問い合わせなくてはならないし、鹿児島の空港とも連絡を取らねばならないでしょう。そりゃ、いろんなことがあるだろうけど、窓ガラスに油が漏れているのがずっと見えるのは最悪の事態です。

 まあ、どうにかカゴシマには着くはずなんですけど、象徴的な旅の出来事ではありました。

 さて、早くカゴシマに着いてもらいたいな!



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