私の住んでいる土地では、貧乏ルールが動いています。
何事にもケチケチして、少しでも安いものがあれば、そういうのをチラシなどで見つけたら、そちらに押し寄せたりします。クーポンを活用し、少しでもお安く生活できるようにする。保存できるものなら、安い時にたくさん買い込んでおいて小出しにして使う。不要のものはリサイクルに回し、少しでも高く売れるところへ出して換金する。
こんなに貧乏ルールに支配されていると、考え方も生活も委縮して、節約し、縮こまり、無駄を省こうとする。その考え方は悪くないけれど、実はムダこそが人間の生きがいであったという矛盾を突き付けられることになります。
お金にならないことが、自分を形作っていた。
たとえば、スポーツをする。仲間ができる。
たとえば、俳句や短歌をひねる。それを仲間に見せる。
たとえば、絵を描く。それを誰かに見てもらう。一言もらえるだけで、どんなにうれしいことか!
たとえば、散歩をする。時には、誰か一緒に歩く人を見つける。ひとりの時よりも歩くスピードは落ちるかもしれないけど、競歩をしているのではないから、ヨタヨタ歩くのも時にはいいでしょ?
たとえば、お菓子を作る。自分のために作る人もいるだろうけれど、基本は自分以外の人に食べてもらうことが大事でした。
これら、ムダなこと、旅などもそうですね。仕事の旅ならいざ知らず、旅は基本はムダなことでした。お金と時間がなくなります。誰かが旅をするということは、環境にも負荷をかけることになりかねない。
これら、ムダなことあれこれ、すべて私たちの生き方において、なくてはならないことでした。もっともっとムダなことはあると思いますが、人間は、困ったことにこれらのムダがないと生きていけないのです。
でも、これらのムダなことは、保証されていません。自分の裁量と稼ぎによって辛うじて守られています。ですから、教育を受けることは、ムダなことではないはずだけど、人間としては必要なことのはずだけど、この私の住む土地では、お金のない者は、高校を卒業と同時に、教育を受ける権利はいったん奪われます。何とか工面してお金ができた人だけ高校以上の教育を受けることができて、お金がない人は、奨学金という国家からの借金を背負うことになります。
自らの責任で借金すると決めたのだから、卒業したらすぐに返却してもらわなくては困るし、それでも足りない場合は、アルバイトをしたり、何かお金を自助努力でそろえなくてはなりません。
生活保護を受けている者であれば、高校以上の教育は受けられないような形も作られている。
それでも、みんな自らの希望のために、無理をして教育を受けようとするでしょう。それを支えるシステムは、とても貧困で、このシステム設計の人たちが、「貧乏人には、基本は高校以上の教育を受ける権利はそんなにないし、ものすごく優秀な子であれば、別のルートを作ってもいいけれど、まあ、そういう子でない限り、できれば働いて税金を納めてもらいたい」と思っているのでしょう。
税金は、ちゃんと使われていますか? 私は検証したことがありません。漠然とですけど、偏りがあるのではないか、と思ってたりします。
そもそも、お金はないのに、いろんなものを買い込んでいるし、使い込んでいる。「必要なものを作っているのだ」と言うだろうけど、どれほど必要なものなのか、ちゃんと議論はなされたのか、私は神様ではないので、そんなとこまでチェックできません。
ちゃんと使われているんだろう、と思うようにしています。
でも、税金のムダ使いは、どこかであるような気がしますし、偏ってもいるでしょう。人間は、偏っているのが当たり前だから、富を公平に分配するなんて、そもそも無理な話です。お金を持っている人が、すべての人にいきわたるようにお金を使うなんていうのはあり得ないのです。
お金もないのに、未来の若者たちに借金を負わせるということを思いついた人がいて、いつからなのか、この税金を握る人たちは、収入以上のお金を使うことができるようになりました。
よその国も同じようなものだ、という話ですが、私は信じません。今の私の住む土地の税金を握る人たちのお金の使い方はおかしいと思っています。
でも、私にプランはなくて、とりあえず、あるお金だけで予算を立ててほしいという願いだけです。でも、この願いなんて、無視されて踏みにじられるだけです。
何をバカなことを言っているんだ。今までもちゃんとやれていたように、これからも永遠にうまくいくのだ。信頼してこれからの政策に期待してください。
なんて、語り口だけは軽やかに聞かせてもらえるでしょうね。
仕方がない。ちゃんと、私でもできる検証をするしかありません。経済のこと、あまり得意ではないし、興味もないけど、気にしては行きたいです。