しつこく戦国時代の秦の国を振り返ります! 戦国から天下統一に向かって次のような王様たちが秦の国のトップに立ったようです。(整理する意味でも見てやってください!)
1 孝公さん BC362~BC338 在位24年
2 恵文(君)王さん BC338~BC311 在位27年
3 武王さん BC311~BC307 在位4年
4 昭襄王さん BC307~BC251 在位56年
5 孝文王さん BC251~BC250 在位3日 昭襄王の子、即位3日で亡くなる。
6 荘襄王さん BC250~BC247 在位4年 孝文王の子
7 始皇帝政さん BC247~BC210 在位37年 荘襄王の子
8 二世皇帝胡亥 BC210~BC207 在位3年 始皇帝の子
9 秦王子嬰 BC207 始皇帝の子
「公」から「王」になるには、何百年の時間が経過しています。みんなそれぞれの土地の中でトップであるという意識はあったんです。でも、中国大陸の中で一番偉い人ではありませんでした。一番偉い人は周の天子様でした。この方がおられるので、それぞれの国では、王とは名乗らず、みんな亡くなってからも「○○公」という位に落ち着いていました。それは春秋時代で、まだ節度があったというべきなのかな。
けれども、時代が過ぎていくと、「オレが……」という人が何人か出てきて、自分の偉さにハクが付けたくて、部下たちにアイデアを出させて、それじゃあ、「王」を使おうという人が出ます。秦では恵文王さんが最初の王様です。
いよいよ戦国もたけなわというところなのかな。春秋時代は、絶対に「王」は使いませんでした。ちゃんとケジメがあったんです。「王」よりランクが下がるのは? 「玉」というのは将棋の世界でしたっけ。とにかく、みんな呼び名が気になるらしいんです。権力を得たら、ハクをつけたがるんですね。
始皇帝の2人のお子さん、胡亥(こがい)さんと子嬰(しえい)さんは、もう部下たちに好きなようにやられてしまうし、国は滅亡に転がっているので、短命なのは仕方がないとして、武王さんは、無理して力自慢をして腰が砕けて死んでしまい、孝文王さんは3日で亡くなり、荘襄王さんは呂不韋さんを起用して、領土拡大を図りますが、短命に終わってしまいます。
さて、『戦国策』に入ります。武王さんにある人が昔の言葉を引いて、落ち着かせようとしていたようです。この説得した人が誰なのか、気になるんですけど、本のどこにも書いてありません。どうしたんでしょう。
男「王様、こんな言葉があるのをご存じですか?」
a「王兵は( )って驕(おご)らず」……王者の軍は〇っても驕りたかぶらない。調子に乗らない。
と男が提案しても、王様は聞き入れません! そりゃ、武王さんは亡くなる時もムチャしてしまう王様ですから……。
b「初め有らざるは靡(な)し。よく( )有るは鮮(すくな)し」……初めのないものはないが、〇わりを全うするものは滅多にない。
c「百里を行くものは、( )十里を半ばとする」……最後の道程の困難なこと、最後になればなるほどいろいろな問題が起こってくるので、慎重に最後まで気を抜かないこと。
『戦国策』では、この無名の人が何度も何度も古典を引き合いに出しながら、最後まで気を抜かないようにしましょうね。落ち着かないとダメですよ。いくら自分たちが調子がよくっても、気を抜いちゃダメですよ。最後が肝心なんですから、という風にお話もしたようです。勝って兜の緒を締めよ。もう何度も言われていることをお伝えしたのに、王様は無視してしまいます。ああ、残念でした。忠告は報われなかった。
この武王さんは、力自慢で力のあるところを見せようとしてムチャなものを持ち、そのまま死んでしまいます。芸は身を助けるではなくて、力は身を亡ぼすでした。
答え a・勝 b・終わり c・九