甘い生活 since2013

俳句や短歌などを書きます! 詩が書けたらいいんですけど……。

写真や絵などを貼り付けて、二次元の旅をしています。

Expo1970 日本万国博覧会 その2

2015年03月13日 22時19分37秒 | 1970ばんぱくkids
 三菱未来館に2時間待ちでやっと入れました。たぶん父はヘロヘロだったんでしょう(父は自らのしんどさを表に出す人ではなかったので、当時の私たちは当たり前に父が並んでくれるものだと思っていました。何ということでしょう!)。こんな行列を作って何かをずっと待ち続けるというのは、当時の私たちには初めての経験でした。

 深夜急行を駅構内で待つとか、寝台特急のキップを取るために朝早く大阪駅に行くとか、そういうので行列があるというのは、実際に父が母の指示で行かされているのを見ていて、たぶん大人になると、家族のために少し無理をして並んだりするというのは知っていたような気がしますが、実際に自分がそういうのを目撃するのは初めてでした。

 何か自分たちがやりたいことをするためには、世の中の順番というものがあるらしいのです。三菱未来館を見るためにも、そういうのをクリアしなくてはならなかった。アメリカ館とかソ連館とかが何時間待ちという情報はニュース番組などで見聞きしていました。でも、普通の日本企業のハビリオンまで何時間も待たなくてはいけないとは知らなかった。



 私たち家族は、何時間か経過してやっと中に入ることができた。すると、そこはエスカレーターや動く歩道で移動しながら、左右のスクリーンに映し出される、地球の奥深くから吹き出されるマグマ、巨大な風や雨などを見せる見せ物小屋でした。特にものすごい映像があるわけではなく、ただ大きな音であり、迫り来る映像を移動しつつ見るというものだった。

 未来を描かなきゃいけないので、当時の近畿地方にとって、巨大台風から自分たちの生活圏を守るというのがすごく切実だったので、まだまだ堤防や水門など建設途中で、とにかく当時の私たちの台風というのは、現代人にとっての地震と同じくらいの脅威でした。その恐ろしい台風に対して、三菱未来館では大胆な提案をしていました。

 フィリピン付近の海の上で台風が発生すると同時に、その台風の上に飛行機を飛ばして、台風の目に向けて原爆を落とすと、台風はいっぺんに消えてしまうのですよ、という映像というか、提案というかを見せていて、単純な私は、ああ、これで台風に悩むということがなくなるのだすごいなあと感心し、ぜひそういうことを実施してもらいたいと素直に思ったのでした。

 今、冷静に見れば、台風の目に原爆を落としたから、すぐに低気圧は消滅するわけではあるまいと思えるのに、当時の私は単純にすばらしいことだと考えた。核3原則も知らず、広島・長崎のこともあまり知らず、小学校の高学年なのに、素直に喜んでいた。

 なんということでしょう。日本は、それから核保有国になることもなく、核開発に手を染めたことはあったのかもしれないけれど、まがりなりにも核を持たない国として70年を経過することができた。これも国民の厳しい目があったから、核を持たないで来られた。たまたま原発はハードルが低くて、54基も保有してしまったけれど、これも少しずつ減らしつつあるのでよかったけれど、1970年には、こんなことを企業のPRとして映像化することもあり得たのです。


 住友童話館。小さい円盤の中に入りたかった。


 東芝IHI館。黒いチリチリパーマの中の、赤いウニみたいなところで特別な映像があったらしいけれど、入れませんでした。


 電力館は、毎夕、テレビで歌まで聞いて(エネルギーと安全の、チャラッチャッチャ、万国博の電力館……、メロディだってすっと出てきます!)、あこがれはあったのに、とうとうここにも入れなかった。



 その他に、松下館(現在のパナソニックさん)、日立ハビリオン(オレンジの円盤に長いエスカレーターがついています)など、電気会社のハビリオンは、どこも仕掛けが楽しそうでした。サンヨーという今はパナソニックに吸収された電気会社は巨大な洗濯機を展示していました。シャープは会社が小さくて不参加。ソニーはケチだから不参加。NECは興味が無くて不参加。やはり西日本の企業が頑張っていたんですね。

 トヨタさんも、当時は万博どころじゃなくて不参加。こうして見ると、昔から今までずっと元気でやっている企業ってなかなかないものですね。

 さて、最初の万博は、ヘトヘトになって帰ってきました。それから、何度か万博には出かけました。学校の遠足、鹿児島の親戚と2度ほど、母が何かの団体で抜け駆け、夏に夜遅くになることを覚悟して出かけて、夕方やっとアメリカ館に入ることができて、みんなが見たがっていた月の石を見て、特に感動することもなく見たり、そんなこんなの万博狂想曲がありました。



 あの熱狂はなんだったのかなあ。あれを経験した私は、もう2度と何時間も並ぶのはゴメンで、有名テーマパークでも、愛知万博でも、並ぶのはすべてスルーしました。もうどこにも並びたくなかった。あれからずっと、私は行列を拒否する人間になってしまいました。そんなことでは関東では生きていけません。確かにその通りです。私は関東地方では生きていけない人間を、もう40年以上非関東圏でやっています。いやぁ、たいしたもんだ。

 関東の人って、行列に寛容ですよね。私は我慢できません。小さい頃、万博で行列を学習したはずですが、これは身につかなかった。


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