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そばにあるものの大切さ 中歴-56

2017年10月22日 14時30分19秒 | 中国の歴史とことば

 戦国時代は、趙から始めようと思います。いや、その前に歴史をふり返りましょうか。

 中国大陸の真ん中に周という国があります。ここの王様は一応存在します。でも、オパカな王様の幽王さんがメチャクチャで国は傾きました。異民族に侵略され、王様は死んでしまいます。これがBC771年でした。

 それから春秋時代で、いろんな国の王様が中国大陸で名を上げては消え、また現れては消えるということを繰り返しました。

 斉の桓公さん(BC685~643)、晋の文公さん(BC636~628)、楚の荘王さん(BC613~591)、呉の夫差さん(BC496~473)、越の勾践さん(BC497~465)こうした王様とともに時代は進んでいったようです。あちらこちらに王様はいましたが、ただの王様ではなくて、各地の王様を集めて、その会議(会盟)のリーダーになりました。王の中の王というのは、この5人ということになっています。……春秋の五覇ということですね。

 約三百年、各地の諸侯の間で興亡がありました。五人の王様(覇者)たちがいなくなったあと、食うか食われるかという、戦国時代へと進んでいったわけでした。

 いくら何をするかわからない人間とはいえ、お互いにつぶし合いをして、とことん相手を倒すようになるのは、この戦国時代の二百年が来ないとダメだったんですね。日本だって戦国に行くまでに応仁の乱からの中央の混乱があって、それが全国に波及したわけだから、何かどこかで流れが生まれないといけないわけでしょうね。


 その最初が趙で起こる事件です。趙の前に晋という国がありました。安定した強国で、できればそのままつづいてくれたらよかったんですが、先進地域というのは細分化することが多いようで、細分化した後、それをまとめていった力が国家を統一するというパターンのようです。

 晋という国に6つの権力ファミリーが登場します。趙氏(というファミリーですね。日本だと……家・組とかいうふうにくくりますけど、この時代の中国は「氏」でくくります)、韓氏、魏氏、智氏、范氏、中行氏でした。どんどん勢いが増せば、お互いをつぶし合うのは人間の常で、范氏、中行氏が滅び、あと4つになりました。

 ここに猛烈な勢いの智氏にすごい人が現れます。智伯瑤(ちはくよう)という人でした。一族のひとりは、この瑤(よう)さんのことを次のように評したそうです。

 「瑤(よう)には他人のとうてい及ばぬ5つの長所がある。それは、長くて美しいヒゲ、たくみな弓を射る技術、ものごとを処理するすぐれた技能、驚くべき豪毅(ごうき)果敢(かかん)さ、素晴らしい機知である。

 そして欠点がただ1つ。ただし、この欠点は他人の絶対に忍び得ぬしろもので、必ずや智家を亡ぼす結果をもたらすだろう。それは情け容赦(ようしゃ)を知らぬ貪欲だ」

 瑤(よう)さんは、晋の国をかなりの割合で牛耳っているだけでは気が済まず、他の3家を亡ぼしたいと思ったそうです。敵を国内から排除して、自分の好きなように国をしたいしたいと考えたようです。

 一度にすべてを亡ぼすことはできないので、1つずつつぶすことにして、その最初のターゲットが趙家でした。この一族を亡ぼして、自分の支配する領域を広げ、やがては国全体と思ったようです。

 韓氏と魏氏は、仕方なく智氏と一緒に行動することになりました。3つの国の連合体で趙を攻めました。けれども、趙さんたちファミリーのディフェンス能力は高く、簡単に亡ぼすことはできず、長期の籠城戦となりました。


 あの羽柴秀吉さんの毛利攻めで見せた水攻め作戦です。お城のまわりに堤防を築いて、城を水浸しにしました。けれども、趙氏は降参せず、3年間対峙したまま、食うや食わずの水浸し生活を堪え忍んだそうです。

 さすがにくたびれて、もうダメだ、わが家の亡ぶときが来たと当主の趙襄子(ちょうじょうし)さんは覚悟したそうです。もう切腹か、自滅か、降参か、とにかく滅亡だと考えた。

 すると、そばに控えていた張孟談という人が言いました。

 「殿様、それはめっそうもないことです。いよいよわれわれの勝利の時が来たのであります。どうか、私めに一切お任せくださいませ。智伯の首を必ずご覧にいれます。殿は兵士たちにいかだを作らせてください。」

 そう言い残して、張孟談さんは出て行きました。

 張孟談さんはこっそりと韓・魏の二人の王に密会して言います。

「……がなくなると、そのときは歯が寒くなるということではございませんか。今、智伯さまが韓と魏のお殿様とご一緒にわれわれ趙を攻撃されて、趙は今にも滅びそうでございます。

 けれども、この趙が亡んでしまったら、そのときは韓と魏が次なる標的となるのではございませんか」と。

 二人の王は言います。
「そうであることは私たちも理解しているのだ。あの智伯さまの性格は粗暴で、親しみやすいところもあまりないのだ。しかし、われわれがが智氏を裏切って趙と同盟を組むということがばれてしまったら、きっと禍が起こるだろうし、ああ、どうしたらよいものだろう。」

 さあ、張孟談さんの活躍です。
「陰謀はお二人の口から漏れて、私の耳に入っただけです。この計画を知る人はまだどこにもおりません。私たちがすばやく行動すれば、どこにももれる心配はないのです」

 二人の王はすぐに張孟談に、協力して智伯を攻撃することを約束し、日時を決めて夜晋陽(趙氏の籠城するお城)に入らせました。張孟談さんはお殿さまの趙襄子さんに報告します。少しずつ決行の時間が迫っています。

 その前に、張孟談さんが智伯さんのところへご挨拶に行き、もうダメですけど、何とかしてくださいとお願いに入り、相手を油断させに行った折です。智伯瑤(ちはくよう)さんの一族の智過さんとすれちがいます。智過さんは中に入って智伯さんに言いました。

 「二人の王はほとんどど今にも心変わりを起こそうとしていますぞ! 大変です」と。

 智伯さんは、「どういうことだ。」とたずねました。

 智過さんは言います。
 「私は張孟談と軍門の外で会いました。意気揚々としていて、胸を張って歩いておりました。きっと何かあります。油断してはなりません!」

 智伯さん「そんなことはあるまい。私は二人の王と固く約束したのだ。趙を倒して、その領土を三分割するのさ。私はこの二人の王と約束をしているんだ。彼らは絶対に裏切らない。お前はそんな考えを捨てなさい。私の決めたことに口出ししてはならない。黙っていなされ」

 ああ、だまされるときというのか、人が滅びに入っている時には、負のスパイラルがあるというのか、どんどん知らず知らずに落とし穴に入っていくというのか、あの智伯さんが、とてもピュアなお気持ちで二人の王様を信じていました。


 このあとにも、智伯さんに関連することばは出てきます。一族の人がぼろカスに言うほどのひどい人ではなかったんじゃないか、と思ったりしますが、とにかく、智伯さんはどうにもあともどりできないところに来ています。

 たぶん、3年間ずっと敵の城を水攻めにして、いよいよそれも終わりだといううれしさもあったんでしょう。

 また、3年間苦楽をともにしてきた仲間の王様の韓氏と魏氏には連帯感も感じていた。一緒にお酒を飲んだり、一緒にオシャベリもしたんでしょう。仲間だと信じてしまっていた。やがては自分はこの二人を裏切るつもりだけれど、今は仲間としてやっている。

 今は友だちである。将来は敵になる。わかっているけれど、今は、この瞬間は、ともに趙が滅びるのを共有したいと思っていたのかもしれない。間が差したんでしょう。

 せっかくのチャンスを逃し、智伯さんは信じてしまった。

 さあ、どうなるんでしょう。つづき明日書きます。今は台風が来ていますからね。のんきに中国の歴史どころではないのです。


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