近ごろ、ほんの少しだけ自分の中で賢治さんブームになっています。気になる作品は、『オツベルと象』です。たまたま講座で教わった作品でした。そして、自分の中では『オッベル』だったのが、これは近年の研究により『オツベル』と変わったというのを最近教わりました。昔、文字だけで知ってたときは確かに『オッベル』だったのですが、研究が進むということはありがたいことです!
まあ、そういう個人的な無知な体験は置いておいて、とにかくお金持ちのオツベルさんは「たいしたもんだ」ったらしいのです。
それで、どういうわけで「たいしたもの」だったのかというと、稲こき機械を数台所有しており、お百姓さんたちをたくさん雇い、琥珀のパイプを肌身離さずに持ち、いつも金儲けになることを考えていたからでしょうか。そのオツベルの作業場に突然に白象が遊びに来ました。「どういうわけで来たかって? そいつは象のことだから、たぶんぶらっと森を出て、ただなにとなく来たのだろう」というふうに、語り手の牛飼いは語ります。
第1日曜に現れた象は、第2日曜には象は「疲れたな」ともらします。それから3週間ずっと象はこき使われて、ヘトヘトになってしまい、象が「もうダメだ」ともらした瞬間に、今まで静かに下界を眺めていたお月様は、象に「なんだい、からっきし意気地のないやつだなあ」と話しかけて、森の仲間に手紙を書かせます。そして、象たちが仲間を救いに起ち上がって、資本家のオツベルは象に踏みつぶされ、白象は助け出されます。助け出される時に白象は「さびしく笑って」仲間のもとに戻るというお話でした。どうして「さびしく笑った」のか、それは何か意味があるのだろうと思われますが、それはどうだか分かりません。
それでは、何で気になるのかというと、仲間たちを救おうとする象たちの優しさがステキだったり、自分のこと以外にあまり関心がないように自分の心を抑えつけ、小さなことにビクビクするお百姓さんたちに自分の姿を見てしまうからということもあったり、オツベルさん自身だって、お金はたくさん持って、新しい金儲けのアイデアも豊富だし、お金持ちの威厳を保つのに熱心ではあるものの、その心の裏側ではいつも何かにおびえる姿にあわれみを感じるからとか。
それとも、登場する人間たちの弱さを慰めるような純粋な白象の生き方に心を打たれてしまうからなのか。今もはっきりことばにできないのです。だから、また、クルマの中で長岡輝子さんの朗読CDでも聞いてみましょう。
宮沢賢治さんのことを書こうと思ったきっかけは、『オツベルと象』のことが日々気になっていたのと、新聞で宮沢賢治さんは自らの進路・宗教などで父親と対立していたことがあったそうで、そのころに伊勢神宮に父子が一緒にお参りしたことがあったのだという紹介記事を見つけて、賢治さんと伊勢神宮の組み合わせの意外さにびっくりして、この長ったらしい文章を書くことになったわけでした。
ハイ、ご苦労さまでした。あまりに意外です。でも、伊勢をテーマにたくさん短歌を作ったそうですから、それを今度読んでみたいと思います。それではまた!
★ それから4年くらい、何もしてませんけど、取り上げないといけないです。いいかげんだなあ。近々書きます? (2017.3.11)
あれから6年経ったんですね。あっという間の6年だけど、悲しいこと、いやなこと、ありましたね。楽しいことは? 電車を撮ることと、どこかを歩くことかな。今は、歩くのは拒否ですけど……。